戦国時代、自分たちの手で領地を守り、時の権力者と上手に付き合うことで、自治を強めたのが「魚沼神社」(当時は上弥彦神社)です。小千谷の地は、他国に軍勢を率い進軍する上杉謙信にとって大切な要衝でした。特に関東や信濃と様々な方面に軍を進めるにあたり、山地に入る前に平地に軍勢を集結させまとまって行動に移すのですが、その拠点となるのが、小千谷でした。上杉謙信は魚沼神社を信仰の対象であるとともに軍事的な面からも大切にしていました。このため、多くの寄進を行っています。越中国から獲得した「大般若経」をはじめ、土地・米、さらに最も重要なのが阿弥陀堂です。一見して小さな御堂にしか見えないですが、この建物の作りに上杉謙信の思いを感じることが出来ます。 ・ 京風の作り:上杉謙信は京への強い畏怖と憧れを持っていたことで知られています。この影響は阿弥陀堂の作りにも影響しており、特に屋根材の作りが雪国に不向きにも関わらず採用していることに強いこだわりを感じます。 ・ 質実剛健な彫刻:阿弥陀堂は至って簡素な作りで、目を見張るような彫刻や装飾はありません。しかし、わずかに施された梁材への彫刻は越後国における後世へと続く寺社建築における美術的な規範となりました。 こうして上杉謙信から庇護され、寄進による富を得た人々は、単に漫然と過ごしていたわけではありません。 ≪天正日記≫にあるような行事風習を自分たちで創りだし、500年の時を経てなお大切に残し続けている自主性を強く感じることが出来ます。 ある時は、神社の名前を魚沼地方における最も大切な神社であることを証明するために、「魚沼神社」という名称を勝ち取った歴史。ある時は、神楽が途絶えてもなお復活させるために、ひたむきに修練を重ねる歴史。ある時は、屋根を住民総参加で財産と知恵と力を出し合い葺き替える歴史。ある時は、柏崎の浜辺に砂鉄を何度も何度も取りに行き、一体の大きな仏像を作る歴史。 この神社の歴史は、どれを見ても誰かにさせられたのでなく、住民の意志により創り、進められてきました。 だからこそ、現在においても地域の力によって文化財として大切に保管され、我々は鑑賞することが出来るのです。