Hontoka.

教育と社会のために【2024-常設展示 近代】

きょういくとしゃかいのために 2024 じょうせつてんじ きんだい
おぢやの千の宝
Published on September 26th, 2024(Updated on October 11th, 2024)

戊辰戦争の戦禍に巻き込まれなかった小千谷。それは明治という時代の最大の変革、「近代化」という一種の競争ともいえる社会現象において、とても意義のあることでした。まちが戦火にさらされなかったからこそ、まちの産業やインフラ、労働力が継続的に利用することができ、一歩先に進むことができるのです。それは教育においても同じことが言えます。 山本比呂伎は小千谷小学校の前身である振徳館を創設したことで知られています。山本比呂伎は周辺地域で難民として小千谷に受け入れられた子供のために、さらに近代化にあたり国力の根底となる教育を行うための施設すなわち「学校」の必要性を考えていました。当時学校を建てることは容易ではありませんでした。国・県からの許可を得る、土地・建物を用意する、そして何より運営するための多額の資金が必要でした。 山本比呂伎は、このすべてを一人の力で捻出しました。役所に何度も建白書を書き、そして足を運び、自分の土地を活用し、懇意の寺社を使わせてもらい、何より家業で稼いだ資金を学校建設・運営に充てました。こうして出来上がった学校は、日本で初めて公民連携にて建てられた小学校として今でも未来を切り拓く人材の育成を行っています。 もう一人教育のために奔走した偉人がいます。幕末から明治初期にかけて「世界が何からできているか」その真理にせまった、科学者広川晴軒です。彼は家業として質屋を営んでいましたが、和算や西洋科学にふれてから学問に没頭するようになりました。自分一人で地図を書き、天体を観測し、この世界の模型を造り、この世界が何の「ものや力」でできているか本を書きました。しかし彼の行ったことは、当時の人々にとってはあまりに早すぎたのかもしれません。そのほとんどの業績は理解されることないまま、死後50年の後ようやくそれがノーベル賞に値する研究であることがわかりました。彼は世界の研究の一方で、国防や社会の仕組みについても学習に励んでおり、その成果をまちづくりに活かそうと、70歳を過ぎてなお、役人に志願しています。しかしこの時は「少しボケた老人」として扱われ、彼の世界に誇る知識が還元されることはありませんでした。 このように、近代化の流れの中、自分という小さな存在でも、力を出し尽くすことで、社会に貢献しようとした人々がいたことにより、我々の現在の社会があることに感謝は尽きません。それは例え、記録はおろか、記憶にさえ残っていない、「知らない誰かのために、雪道を踏みしめて作った『ある時の誰か』」も含めて。

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2nd and 4th Tuesdays
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the New Year's holiday
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