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魚沼神社の至宝【2024-常設展示】

うおぬまじんじゃのしほう 2024 じょうせつてんじ
おぢやの千の宝
Published on September 26th, 2024(Updated on October 11th, 2024)

魚沼神社とは【歴史】

魚沼神社が文書など歴史に確実に出てくるのは、戦国時代になってからです。最も古く、確かなものが永禄5年(1562年)に上杉輝虎(後の謙信)が土地を寄進したときの文書です。その後数多くの寄進状などの古文書によれば手厚く保護されていたことがわかります。特に江戸時代には、徳川家代々が土地の所有を認めていたことから、越後国において、比較的地位の高い神社であったと考えます。現在整理中ですが、江戸時代に神社を運営した際の古文書が多く残されており、歴史を紐解くカギとなっています。明治6年(1873年)には郷社、県社となり、現在は土川の鎮守として地域に愛されています。

魚沼神社にまつわる文化財【一覧】

魚沼神社は、市内でも有数の文化財の宝庫です。 文化財は、散逸や汚損を防ぐために、行政が貴重と認めたものは「指定」を行い保存を強化します。一般的に指定を受けているものは、文化財の中でも重要度が高いと考えることができます。魚沼神社にまつわる指定された文化財は以下のとおりです。 国指定重要文化財   【建造物】魚沼神社阿弥陀堂 県指定文化財   【工芸品】鰐口、【書跡】魚沼神社大般若経 市指定文化財   【建造物】神輿、【書跡】魚沼神社年中行事記   【民俗芸能】魚沼神社太太神楽 こういった指定された文化財のほかにも、小千谷の歴史を語る上で大切なものがたくさんあります。 古文書:3,768点 工芸品:阿弥陀如来像【江戸時代】 魚沼神社拝殿、幣殿、本殿【明治時代後半に建造】 魚沼神社神門:【19世紀前半に建造】 このほか製作年代が不明な文化財も多くあり、今後さらに詳細に調査・研究が必要となります。

魚沼神社にまつわる文化財【特徴】

なぜ魚沼神社は文化財が多く残っているのでしょうか? これを考えるにおよそ以下3点の理由が挙げられます。

  • 古くから戦国武将をはじめ、武家勢力から様々な形で「寄進」や特別な待遇を受けていたため、まつわる古文書が多く残っています。特に上杉謙信は、神仏を篤い敬ったことと、小千谷の地が関東・信濃への進軍ルートの要所にあったことから大般若経をはじめ様々な寄進をしていたことが知られています。
  • 地域の中で篤く信仰され、時代毎にみんなで協力して運営を行っていたためです。自然災害で、社殿や阿弥陀堂が壊れても、お金を出し合って再建する様子が古文書に記録されていました。また祭りを行う際も常に地域の中心的な存在で、神楽などの無形文化財も大切に保存され、その魂は現在も伝承されています。
  • 歴史的な価値を十分に理解した「守り手」がいたことは非常に大きいです。例えば古文書は、通常虫食いや日焼けにより劣化して読めなくなることが多いですが、魚沼神社では蔵の中に入れていたことから、きれいに保存されていました。その他の文化財も良好な保存状態で、今でも安心して観覧することができるのです。

魚沼神社所有古文書(近世)

ここでは魚沼神社古文書のうち江戸時代以降の「社領」関係の史料を展示しました。  まず社領の時代背景のお話をします。 戦国時代に、戦国武将から寄進を受けた土地ですが、豊臣秀吉の太閤検地により、寺社領は基本的に没収されることとなり、神社は地域で管理されることとなります。このため神社は基本的に単独で生計をたてることができなくなります。ただし特に認められた寺社には、徳川将軍家から寺社領の領有が認められました。この時に発行される文書が「朱印状」です。 魚沼神社はこの「特に認められた寺社=朱印地」であり歴代将軍より、20石(1石:米150kg)の領有を認められていました。 参考 江戸時代における主な朱印地  日光東照宮10,000石、弥彦神社500石、  一宮村 八幡(桜町 伊米神社)8石 越後国に29か所あった朱印地のうち、2か所が小千谷に所在しており、当時小千谷の地が江戸幕府にとって重要な拠点であったことをうかがうことができます。

魚沼神社 阿弥陀堂【国指定重要文化財】-建造物-

阿弥陀堂は、魚沼神社の境内正面の本殿に向かって、手前左側にあります。 明治時代初年の神仏分離の際、「神輿舎」と改称されましたが、阿弥陀三尊はそのまま安置され、建物とその性質が大切に守られてきました。昭和29年(1954年)に行われた大規模な解体修理の際に改めて「阿弥陀堂」に改称されました。 高さ約7m、桁行約5mの三間四方で、一重宝形造茅葺のお堂です。古くから「室町時代末期」の建築と伝えられてきましたが、昭和29年の解体修理の際、実肘木に永禄六年乙丑(1563年)の文字が確認されました。なお干支は誤表記とみられますが、合わせると永禄8年(1565年)となります。軒の張り出しがきわめて短いことや、正面以外に縁が存在しないことは、豪雪地帯の建物として配慮されたものと考えます。

神輿【市指定文化財】-建造物-

この神輿の天井板に、明応四年乙卯(1495年)四月の墨書があります。一般的な神輿としては、まれに見る古いものです。ただし、建造当時の残っている部材は、躯体部分のみで、大部分は文化14年(1817年)に大規模な修理の際に失われています。 神輿は高さ約1.8m、重さ約150kgです。四方に鳥居を配置し、高欄でつないでいます。上部には華鬘、垂飾幡、神鏡等が付けられ、屋根の上には鳳凰の飾りがあります。この神輿は現在でも神社の祭礼の際に使用され、地域に愛されています。

鰐口【県指定文化財】-工芸品-

通常、鰐口は寺や神社の軒先に吊るされ、参拝者が打ち鳴らすことで来意を告げるためのものです。 銘文によると、永享9年(1437年)吉谷村の西片弥三郎光行が弥彦大明神(魚沼神社)に奉懸した鰐口であることがわかります。 この鰐口は鋳銅製で、中心部の撞座は蓮弁を波形に略し、中房には七個の蓮子を小円で陰刻し、その外には細かい放射線で蕊をあらわし、その内外を圏線で区画しています。正面外区には力強く深い陰刻銘で、『南無弥彦大明神 奉懸鰐口越後国魚沼郡吉谷村永享九年十一月十五日大願主西片弥三郎平光行敬白』と刻まれます。大きさは総径48.3cm鼓面径42.8cmです。 奉納者の「西片弥三郎光行」については、魚沼地方の豪族、または小千谷「西方」の地頭となった武士であったといわれていますが、いずれも確証がありません。

魚沼神社太太神楽【市指定文化財】-民俗芸能-

いつ頃はじまったものか示す資料はありませんが、元治元年八月(1864年)に記された「魚沼神社永代大御神楽講帳」「魚沼神社大々講帳」の中で「新社再建につき、これまで廃絶していた二十一座太太神楽を準拠して行う」とされ、少なくともこの以前から存在したと考えます。 伝承によれば、刈羽郡北条村御嶋石部神社(現:柏崎市北条)から神楽面や舞人を借りて実施していたとされます。また明治二十五年(1892年)に神主の息子の寛平が北条村にて習い覚えた舞を村中の若者に教えたとの記録があります。大正時代以後、戦争や高度経済成長の影響で3度にわたり途絶えながらも、住民の力で復興されており、昭和52年(1977年)に保存会が結成され大切に保存されています。 後継者育成に力を入れており、地域の小学生から大学生、社会人まで多くの住民が参加し、魚沼神社祭礼にあわせて、市外から帰省して参加する様子が特徴的です。

大般若経【県指定文化財】-書跡-

大般若経はもともと現在の富山県富山市周辺の寺社に納められていたものとされます。 近年富山県の研究者の間で、この「もともと納められていた寺社や持ち出された年代」を解明しようと取り組んでいます。 この成果によれば、現富山市内の「押上」からもたらされたものと推定されています。上杉謙信は1573年(元亀4年)に砦を築いているようで、この前後年に「押上七社宮」と呼ばれる寺社に押し入り大般若経を獲得したようです。そののち戦利品として越後に持ち帰り、魚沼神社へ奉納したと考えられます。 なお、天正16年に記された「魚沼神社年中行事記」によれば、この大般若経を神前で転読していたことが記録されています。 こののち400年の間、魚沼神社の中で大切に保管されていました。

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