【みんなの手で、未来づくり大作戦】2024-常設展示-佐藤半左衛門の子孫
みんなのてで みらいづくりだいさくせん 2024 じょうせつてんじ さとうはんざえもんのしそん小千谷の文化財を受け継ぎ未来につなげる人たちの、手と声を、聞き取り調査をもとに紹介します。
佐藤半左衛門の子孫
2024‐常設展示⑤ 半左衛門は小千谷の「父」 佐藤正機(昭和21年生まれ) 《画像は近日公開予定です お楽しみに!》
自分は、半左衛門の分家「加賀屋(石川県にルーツがあるからか)」の子孫。 子どもの頃、半左衛門のことは興味がなく、聞いていたかもしれないけど聞き流していたんだと思う。親父は「佐藤家の血をついでるのは自分しかいない」というのが自慢で、晩年の頃、半左衛門や雪山(さとうせつざん:江戸時代の算学者で廣川晴軒の師)ことをまとめて冊子を出していた。 2014年ごろ、町内会長になってから、半左衛門に関する話をするようになった。年を取ると、まわりの人もそういう(昔の)話を聞きたくなってくる。
佐藤家は、佐渡に50年くらいいて、その後、小千谷の上片貝に移ったという。そして、その中の一人が小千谷の下タ町に来た。まだ、今の本町のあたりがなかったころで、そこに「まち」を作るため中心となって貢献した4人(佐藤、中町、東、吉沢)のうちの一人になった。 維新の頃は大庄屋で、七品運上でもうかったらしい。戦争(戊辰)が起こるかもしれないということで、(当時のおばあちゃんが)不動明王を持って逃げようとしたという話を聞いている。 当時、金持ちも知恵のある人もいっぱいいたけど、半左衛門は地元の塾ではなく、江戸に遊学に出て、陽明学も学んだ。勤皇思想もばんばん入ってきて、国を変えてやろうという気概があったのではないかと思う。あの時代、身を投げ打って、国のため、地域のために尽くそうとしたのはすごいこと。当時は、山本比呂伎がいたり、いろんな人が集まってつながるというのが、ある意味時代の面白みなんだろう。
小千谷小学校150周年の時、小千谷小学校は点々としているから、そこに石碑を建てようと提案をした。150周年の今じゃないとできないからと言って提案し、石碑は立った。 山本比呂伎が学校を作ったけど、半左衛門がいないとそれもできなかった。半左衛門は小千谷の「父」。いなければ焼け野原になっていて、今の小千谷はなかった。
半左衛門の孫からの依頼で、山本比呂伎が半左衛門の漢詩を書にしたもの
①小千谷の好きなものは何ですか
なす味噌が食える
②未来の小千谷の人たちに伝えたいこと
滅びるのは滅びてもいい、どうしても残さなきゃいけないものはない。 (2024年8月)