【みんなの手で、未来づくり大作戦】2024-常設展示-うらがらグリーンチーム
みんなのてで みらいづくりだいさくせん 2024 じょうせつてんじ うらがらぐりーんちーむ小千谷の文化財を受け継ぎ未来につなげる人たちの、手と声を、聞き取り調査をもとに紹介します。
うらがらグリーンチーム
2024‐常設展示⑩ 朝日山は宝の山 川上和雄(1953年生まれ) 《画像は近日公開予定です お楽しみに!》
①あなたは文化財に関するどんな活動をしていますか
「うらがらグリーンチーム」として朝日山古戦場の保全活動。
小千谷市ホームページ
②いつからその活動をしていますか
始まりは、1本の電話だった。
前年まで町内会長をしていて、終わってよかったと思っていたら、白井さん(小千谷市学芸員)からNHKの取材があるのでいろいろ教えてほしいと電話がきた。最初、新しい町内会長に電話したみたいだけど、よくわからんからと回ってきた。俺もよくわからんかったんだけど、断らなかった(笑)ただ、一人じゃできないからグリーンチームにもっていった。NHKが銃弾探しを撮って、「NHKスペシャル」と「歴史探偵」で使うと伝えると、じゃあ、ということでグリーンチームが全面的に受けた。 たまたま俺も朝日山に畑を持っている地権者で、チームの中にも地権者がいっぱいいる。取材の時は、メンバーが最初に銃弾を掘り当てて、それが放送でも使われた。次の日は、別のメンバーの畑で発掘をして、ものの何分もしないうちに出た。 最初は、もっと深いところにあると思ってスコップを使ったんだけど、タマは数センチのところにある。これは丁寧にしないといけないんだなと気づいた。これが塹壕だと白井さんから教えてもらったら、浅川先生(日本大学教授)がきて、塹壕ではなく正式には胸墻(きょうしょう)だという。そんな話を聞いて、学んで覚えていった。 戊辰戦争のこと、朝日山のことについて、小学校の頃に聞いたけど覚えてない。あの山に行ったとて山菜があるわけじゃない。ただ、見晴らしがいい、ハイキングでのぼる山程度だった。浦柄神社の墓地は、保存会で保存しているし、会津の慰霊祭には、中越地震の後からは毎年町内で行くようになった。ただ、戊辰戦争については、詳しい人は詳しいけど、以前は学びたい材料がなかった。 昔から、朝日山はなんとなく鉄砲のタマが出た。うちにもあるし、タマを熔かしておもりにしたりする人もいた。当たり前すぎて価値がわからなかった。 それが取材以降、朝日山を見る目が変わった。面白い、未開の地が眠っている。白井さんは宝の山だとエライほめてくれる。藪ですごいけど、春先には地面がでるから、近くの山に塹壕があるのがわかる。時山直八の墓から数メートルのところにもある。至るところにある。ニシノヒラとか、榎峠と谷を経て打ち合いをする場所だから、きっとある。 グリーンチームはもともと、植樹や災害ボランティアをする団体だった。白井さんと一緒になってわーわーするというのが、3番目の活動。
③その活動で大切にしていることは何ですか?
グリーンチームという仲間、この仲間そのものが宝。
④その活動でもっと取り組みたいことは何ですか
小学生を巻き込みたい。 朝日山ってすごいんだよというのを、自分たちの世代に話しても「ふーん」で終わり。それよりももっと若い、今の子供を育てている世代や、子供たちに体験させる。教えるんではなく、実際に体験させる。 子どもたちは、素の状態でやると吸収が早い。そして、必ず親がついてくるから、子どもに体験させながら、その親にも引き継いでいける。 何にもない浦柄だけど、実は宝の山だというのを体験してもらうということが、少し始まってきている。
⑤小千谷の好きなもの、ことは何ですか
うちの鯉。五色という品種で、うちは5、60年くらい前から飼っていて、いいのが出る。 24歳か25歳のときに、親父から借りて作って育てた鯉がいいのができて、全日本の品評会に出して11部の中で一番いい「国魚賞」を五色で初めてとった。サラリーマンで専門家ではなく、趣味でやっていた。このことは、そこそこの年代のプロの人は知っている。プロの人が改良を重ねて、今の五色がある。今も五色は飼っている。
⑥未来の小千谷の人たちに伝えたいこと、のこしたいことは何ですか
朝日山。 変に観光化されないで、重要な史跡として荒らされないよう保全活動されて皆さんに知ってほしい。史跡も今よりもっと広がって、朝日山と榎峠と他のところが一緒になって、その中心にあるのが「朝日山」となってほしい。もう少し道が広くなるといいな。
注)うらがらグリーンチームについて教えてください
話が長くなるよ(笑) 中越地震(2004年10月23日)のあと、浦柄町内は全壊した家屋や水害にあったりと大変で、避難勧告が出た。まず避難所、そして東の仮設に入った。避難勧告が解除されて、最初に町内に戻った人はゴーストタウンだと言っていた。直った家から戻るけど、自分は1年1か月くらいかかった。こんな、さてどうしようという、その時の役員をしていた。 いろいろなことを、一番最初に受けるのが自分たち役員。市から言われたことを聞いて、皆さんに伝えるんだけど、マスコミの方が情報が早かったりして混乱したり。集会を開くと、皆さん方から、住めるのかとか、車が入ることができないとか、要望がたくさん出る。そういうことを経験したときに、今の役員では乗り切ることができないなと、町内会長(グリーンチームの親方)に、自分が補佐しながら復興委員会を作りましょうと提案した。年を越して3月、段取りを考えて、農家や鯉、鉄鋼業、花屋、サラリーマン、公務員、いろいろな立場の人をいれて作った。 それから、建物が終わって、ソフトをやろうとなったとき、女性2人を入れ、若返りを図って、メンバーも絞ってできたのが第2次復興委員会。記録集『故郷と生きる』を何年もかかって作ったりして、2011年の3月に解散しようということになった…んだけど、そこで東日本大震災が起きた。 そこで、会長が南三陸のボランティアに行こうじゃないかと。お世話になった中越復興市民会議の人たちが中に入ってくれて、4月23日に向こうの人が要望する人数で避難所にいって炊き出しをした。食材とテントつんで、一人2万円出して6人か7人で、うどんとちまきとか。いろんな道具全部持って、夜中の10時頃出て、現地に8時くらいについた。お昼に間に合うようにと11時くらいから作り始めた。高台の幼稚園で、雨が降って寒くてどうしょもなかったけど、けっこうな人が来てくれた。 俺らと違ったのは、海岸端の人は津波で持ってかれて何もない。ただ、高台の人はインフラの一部はダメだったけど家はある。家に住んでいる人がいっぱいある。ただ、食事が作れないということで、自衛隊の人が1日1回だか炊き出しを持ってきていた。 本当は、3月いっぱいで復興委員会という名前は使えなかったんだけど、町内会長に言って復興委員会で行ってきたということにした。で、このまま終わるのは何だなと「うらがらグリーンチーム」と新しく名前をつけてスタートした。名前には、「浦柄」は入れようと、ただ読んでもらえないことも多いから漢字はやめてひらがな。俺自身は「チーム」を入れたかった。最後に何チームにするかとなったとき、飲んでいた発泡酒がグリーンラベルで、じゃあグリーンチームにするかと(笑) メイン活動の一つは植樹。復興するための被害が大きかった場所に桜の木を植えて、手入れしてうまく咲かせましょうと。地すべりとか崩れた場所で、植樹するにはうまくない場所だけど、根付いた。最初15本、今のところ50本は残っている。桜はソメイヨシノで、このいいところは成長が早い、面倒を見た人が花をみることができる。草刈したり、虫も付くから手入れが大変、でも強い。ただ、植樹は今後の面倒を自分たちで見ることができないから、もうやっていない。 そして、もう一つが災害ボランティア。東日本にも行ってるし、栃尾の方の水害や長岡にも行ってる。要望があるときに声がかかる感じ。 今は、そこに朝日山での活動が入った。みんなでわーわーやれるのが、とにかく楽しい。 (2024年9月)