広川晴軒資料(遺品共)【小千谷の文化財】
ひろかわせいけんしりょう いひんとも広川晴軒資料(遺品共)
- 指定区分
- 県指定
- 種別
- 書跡・典籍
- 指定年月日
- 1957年2月25日
広川晴軒(一八〇三~一八八四年)は、現在の本町にあった商家、広川三右衛門家の次男として生まれ、のちに分家の徳三郎家を相続したといわれています。 安政五(一八五八)年、五十六才の時に算学者の佐藤雪山(せつざん)の弟子となり、万延元年(一八六〇年)八月に江戸へ出て、洋学の大家である箕作阮甫の塾で天文や窮理学きゅうりがく(現在の物理学)などを学びました。慶応元(一八六五)年には西洋の物理学に刺激され『三元素略説(さんげんそりゃくせつ)』を著し、その中で温素(熱)・光素(光)・越素(電気)の三元素が根本において同一のものであると論じました。 また、明治三(一八七〇)年には、当時日本で用いられていた太陰太陽暦から太陽暦に改めるよう政府の諮問機関である集議院に申し出るなど、日本科学史における先駆者の一人でした。晴軒は、小千谷縮が産んだ財力に支えられ、算学の流行が著しく、教育水準の高かった小千谷という町に登場した、まさに小千谷らしい科学者といえるでしょう。資料の中には、晴軒が使用した定規や測量道具、望遠鏡、天球儀などがあります。