【みんなの手で、未来づくり大作戦】2025-夏季企画展②
みんなのてで みらいづくりだいさくせん 2025 かききかくてん 2小千谷の文化財を受け継ぎ未来につなげる人たちの、手と声を、聞き取り調査をもとに紹介します。
昭和を楽しむおぢやんしょ
2025-夏季企画展② 昭和34年生まれ(吉谷) -昭和は今から比べると不便は不便。この年になったから、昭和を生きてよかったなぁと思う-
①小学校に行くとき何を着ていましたか?
夏は半ズボンに襟付きシャツ、靴はタングツ。遊びに行くときはランニングに半ズボンだったかもしれない。 冬は長ズボンにセーター。セーターは買ったやつだけど、ひじにあて布はしてあった。外に行くときは、アノラック上下、長靴、手編みの帽子、手袋も手編みのミトンで紐がついて首にかけられるやつ。帽子も手袋も手編みだから毛糸が太かった。 姉が二人で、下の姉は上からのお下がりだったんだけど、農家の長男で男は一人だったから、お下がりではなく買ってもらった。 学習机も、最初は座卓で引き出しが二つ付いているやつを使ってたけど、中学校か高校に上がるときに自分の学習机を買ってもらった。自転車も子ども用の緑色のやつを買ってもらって、中学校になったらドロップハンドルの自転車を買ってもらった。
②小学生の頃、普段家で食べていた晩御飯はなんですか?
ごはん、みそ汁。みそ汁は、煮干しだしで煮干しもそのまま入っていて、あとは野菜。煮物は大根、ニンジン、いいときは魚っぽいやつが入っていた。あとは大っ嫌いだったニイナ(煮菜)、つぶしたドン豆が入っていた。たまに焼き魚、アジの開きとかかな。 家は兼業農家で、親父は時間があるときは小千谷の鉄工所にもつとめにいってたから、給料日になるとパッケージが赤いミルクチョコレート。クリスマスとかになるとバッカスとラミーのチョコレートを買ってきてくれた。チョコレートをもうらうと、ああ給料日だったんだなと思った。当時、新潟で車の免許を取れなかったから、親父は長野に免許を取りに行っていた。で、鉄工所の社長の車を借りて、家族で石地まで海水浴にも行った。
③小学校の給食で好きだったメニュー、覚えているメニューはなんですか?
好きだったのはカレーライス、嫌いなのは脱脂粉乳。 パン食だったので、マーマレードが嫌いだった。マーガリンは好きだったけど少ないから食パン2枚ぬれない。ごはん食は少なかった。 パンも余ると持って帰るんだけど、味がなくて美味しくないから、途中にヤギがいるとあげていた。持って帰るとき、パンはそのまま入れるからランドセルの中はパン粉がいっぱい(笑)うちはヤギはいないけど綿羊を飼っていた、1頭だけ。 中学校は弁当。アルマイトの弁当箱に、ごはんに卵焼き、梅ぼし、あとは覚えてないけど煮物の残ったやつ。
④小学生の頃、家に帰ってからどこで遊びましたか?何時まで遊びましたか?
うらの神社、かばんを放り投げてクギサシ。地面にくぎを投げて、刺して、陣地とりするゲーム。あとは草野球、バットなんてないから木の棒と柔らかいボールでやる。人数はないから、打つ人、投げる人くらい(笑) 今となってはいけないことだけど、爆竹を蛇の口の中に入れたり。爆竹より大きくて点火時間が長い「ダイナマイト」というのもあって、それに火をつけて投げ合う、すると投げ合っているうちにどこかでバンとなる。 夜の6時か7時くらい、家族に呼ばれるまで外で遊んでいた。
⑤小学生の頃、家では何で遊びましたか?
外でもやったけど、パッチ(めんこ)。当時は吉谷にも雑貨屋があって、パッチはそこで買った。ただ、上手な人は勝つともらえるから、買わないで済む。
⑥昭和はあなたにとってどんな時代ですか?
昭和は今から比べると不便は不便。小さい頃は、裸電球が一つだった。新潟地震は保育園の頃で、今の上皇様が結婚する時に脚付きのテレビを買ったんだけど、それの足が折れて倒れていたのを覚えている。 農家だから、農作業も人力から機械化していくのを経験している。小さい頃は、親戚中が並んで田植えしていて、その時は、働いている人用のおやつにクリームパンとかチョコパンとかが出て、そのおこぼれをもらうのが楽しみだった。高校くらいでバインダーや田植え機が入って、でもバインダーだから刈った後集めに行かなきゃならなかった。 この年になったから、昭和を生きてよかったなぁと思う。今は、この先が不安でしかない。うちらはいいけど、子どもがどうなるか。スピードも速すぎて、AIとかがどんどん出てくるし、この先がわからない。
⑦あなたにとって戦争のイメージを教えてください。
自分は戦争を経験してない。ただ父方のおじが一人戦死していて、親父も終戦近くに満洲かその辺に行っている。親父は、戦地は寒くて食べるのはあまりないと言っていた。親戚が上等兵で、親父は二等兵だったんだけど、同じ隊だったのか戦地で一緒になったかしたときに大目に見てもらったなんてことも聞いている。戦争の夢を見るとも言っていた。 両親とも早く亡くなっていたから、親父は一家の長として苦労したようだ。戦争行って、引き上げて、農家継いで、農作業は機械化されてなくて手作業だし、大本家だったから神社やお寺のこととかもやらなきゃいけない。父だけでなく嫁に来た母親も、父の兄弟の面倒みなきゃいけなかったりと大変だったのではないかと思う。嘘かホントか知らないけど、親戚に紹介されて、結婚式まで顔を見ずに結婚したといっていた。
(2025年7月) このページは小千谷市郷土資料館が作成しました。 掲載コンテンツの二次利用条件などはこちらのページをご覧ください。