残すという事について【市民学芸員体験講座】第24回
のこすということについて しみんがくげいいんたいけんこうざ だい24かい「学芸員の仕事は、実に様々。資料の収集、保管、展示をして、さらに講演まで!」 「そんな学芸員の仕事を気軽に体験し、小千谷のまだ見ぬ魅力を一緒に発見しましょう!」 と、そんなことで始まった【市民学芸員体験講座】も2年目に突入。 活動報告や参加者の感想などをご紹介します。 第24回「遺跡整備演習① 内ヶ巻城・川井城郭群~新発見の大規模中世城館~」 (2025年5月31日実施)
【報告:市内在住 20代女性】 先日はお疲れ様でした。 今回は文章を書いて残すという講座の目標に挑戦しようと思い、内ヶ巻城址での体験や感じたことを書いてみました。伝えたいことがたくさんあってうまくまとめられていないかもしれませんが、今回残すことが大切だと感じたので自分なりに書いてみようと思います。 今回の講座は雨の予報でしたが、無事に内ヶ巻城と妙高寺跡に行くことができました。 天気の関係で山へは車での移動となり、内ヶ巻城→高場山見張り台→妙高寺跡という順に巡りました。 まずは内ヶ巻城入り口へ。
⚫内ヶ巻城
【内ヶ巻城の歴史】 内ヶ巻城は県内で3番目に大きい山城で700年前南北朝時代の田中氏が300年営んでいた山城。北条氏の城を真似て作ってあり、標高が200mと低めな分、防備に力を入れて守りを固めていました。 三国峠の末端に位置しているこの内ヶ巻城は、御館の乱では上杉景虎とその後ろについている北条家の勢力を抑えるのに重要な場所だったとのこと。田中氏は景勝に言われてこの土地を死ぬ気で守ったそうです。 【道中での学び】 集合場所の妙高寺の駐車場から、何台かの車に分乗して内ヶ巻町内に向かい、そこから山に入りました。山の道中は細い砂利道で、上から落ちてきた岩が転がっていました。 内ヶ巻城に着くまでに、去年まで田んぼだったところが養鯉池になっているという話や落石注意とは落ちてくる石に注意するのではなく、落ちている石に注意するのだという話を聞き、道中からも学ぶことがありました。 【内ヶ巻城入り口】 駐車場はないので、道の途中に車を停めて見学しました。入り口と書かれた目印の先は長い道が森の奥に続いていました。近くに看板が立っていて、内ヶ巻城について書いてありました。当初、看板を立てる予定だったところまで持っていけなかったそうで、看板に書かれた現在地は現在地じゃないというややこしいことになっていました。 入り口の隣右には階段城になった土塁?があり、左にはちょっと降りたところに平坦な場所がありました。工事の際の駐車場?資材置き場?それとも山城に関係のあるもの?何か意味があるのかなと思いました。
【搦手(からめて)】 今回は城の入り口から入らず、そこから車でもう少し上がったところにある搦手という裏口からお城に入りました。居館に水や食料を運ぶ為の道で、地主さん?が事前に木を切ってくれていて歩きやすくなっていました。緩やかな傾斜のその道は杉の葉と大きな枝がたくさん積もっていて足を取られ何度も躓きました。 【郭(くるわ)】 さらに進むとちょっとひらけた場所に出ました。草や木が生い茂っていて分かりづらかったのですが、郭と崖側に土塁を見ることができました。土や草木で見えないけれど井戸やかまどの跡があるかもしれないとのこと。 この場所は至る所にマムシグサが生えていました。 郭と居館の話が難しかったです。居館は住むための場所ということですが、郭の中にあったということ?居館は建物を建てる場所のこと?それとも建物自体を指すのでしょうか。山城には建物がなかったという話も聞きましたが、その場合どこで寝ていたのでしょうか。一部盛り上がった場所があってそこにも意味があるけどそれが何かはわかっていないということに心にくるものがありました。 【山城の探し方】 山に登った時に土塁や平坦部、謎の窪み、素掘りの井戸、不自然な盛り上がりなどが見られると山城かも?ということでした。 その話を聞いて、今は郭や土塁をそれとわかった状態で聞いているから、なるほどと思うけれど、一人で山に行ってそれらしいものを見つけても、山城の跡か、別のものか、慣れていないと判断は難しそうだなと思いました。 【当時食べていたもの】 当時は玄米とか粟、稗を食べていたらしいです。戦が始まると食べるものがなくなってくるので、煎餅状にしたものや乾飯などの保存食を戻して食べていました。 当時の味はどんなものだったのか。他にも山に生えている植物も食べていたのでしょうか。山で見かけたマムシグサには救荒植物として利用されていた歴史があるそうです。もし現在山に生えている植物の中に、当時から生えていたものがあったとしたら、食べられていたかも知れないと思いました。
【堀切(ほりきり)】 それからどんどん登っていくと目の前の山がVの字に大きく切れていました。堀切という尾根を切った堀だそうです。その中を通って進みました。緩やかになっていて歩きやすかったです。 堀切の途中から斜面を右手側に登っていきました。中を進むのに比べて斜面を登るのは足が滑るのでとても大変でした。先に行ったノコギリ部隊に感謝しつつ、竹や木にしっかり捕まりながら登りました。 地面に根を張っていて全く抜けない植物に感心しながら何とか登りきると、その先にも堀切がありました。さっきより深いものではないけれど、連続の堀切は凸凹していて進み辛かったです。傍には障子堀?というものも見ることができました。 今回この堀切を登り切るのに7分かかったのですが、戦では上から石や丸太が落ちてくるので30秒くらいで登れないといけなかったそうです。当時攻める側だった人たちは、こんな斜面をそんなに速く、しかも集団でどうやって登ったのでしょうか。当時の靴は草鞋?身体を支える木はないし、今よりもっと滑りそうです。順番に登るのを待っているとやられてしまうし、登れないと上から色々降ってくるし。焦ると足はさらに滑る。上からは丸太が…なんて考えただけで恐ろしくなります。 今回はそんな堀切を2本通っただけでしたが、この山城にはこうした連続している堀切がいくつもあるそうです。攻める時も逃げる時も同じように登ったり降りたりしなければならないのかと思うと大変だろうなと思いました。
【内ヶ巻城本丸?】 登り切ると平坦部があって、ボロボロの目印が立っていました。「内ヶ巻城 本丸跡」の文字がかろうじて読めました。 でも実は本丸はここではなく、堀切の左側を進んだ先にあるそうです。そっちにも堀切がいくつもあるらしい。行ってみたかった…。 たまに見かける小さな平坦部、郭?は、何か意味があるけど、これもどんな意味があるのかわからないそうです。
【腰郭(こしくるわ)と切岸(きりぎし)】 本丸?の郭をそのまま進み、道に沿って下に降りると横に広がっている郭に出ました。腰郭と言って、この場所から内ヶ巻城の重要なところを見ることができるところでした。 振り返ると目の前に大きな切岸とそれを避けるようにして何本も道が伸びていました。切岸は登れないので、傍の道を通らなければならないのですが、道は途中で折れ曲がっていて先が見えないので、どれが本丸へ続く道なのか、正解がわからないようになっていました。今回は逆から来たので進む道が分かりますが、そうでなかったら迷っていたと思います。 【山城の戦い方】 山城は心理戦だったそうです。防備を使って敵を疲れさせたり、迷わせたり、とにかく隙を作ることが重要だったとのこと。直接の戦いが始まる前から心理戦は始まっていて、外から切岸などをよく見えるように作ることで、攻めるのが大変そうだと思わせ、侵攻を躊躇させるようにしていました。攻めてきても、入り口から進んできた敵がどっちへ進もうかとか、道はどこだ?と迷っている一瞬の隙を狙って攻撃を仕掛けていました。先ほどの連続した堀切は凸凹の道を通らせることで相手を疲れさせる目的がありました。山の陰に隠れて誰もいない郭を用意し、敵がそこで休憩している隙を狙って攻撃したりもしたそうです。
【武器】 内ヶ巻城での武器は、鉄砲や弓矢ではなく石や丸太でした。理由は、鉄砲は高価で湿気に弱く装填に時間がかかること、弓矢は敵との距離が遠い方が効果を発揮すること、矢をわざわざ作らなければならなかったことから、敵との距離が近かったこの山城では鉄砲や弓矢より、材料を用意しやすい石や丸太の方が、都合が良かったそうです。落とされた石はどのくらいの大きさだったのか。今も探せば見つかるでしょうか。
【内ヶ巻城での感想】 今回内ヶ巻城を歩いてみて、話で聞くだけではわからない体感ができました。 山にはそれぞれ個性があり、同じ山城は作れないという話を聞き、山を最大限に利用した山城を作るためには山のことを詳しく知る事が必要不可欠だとわかりました。この内ヶ巻城も、実際に作り始めるまでにも相当な時間がかかっているのだろうなと想像することができました。 山城はどこから作り始めるのか、世の中の山にはどんな特徴があって山城はどういう風にその個性を活かしているのか、堀の種類もまだ覚えられていないので区別がつけられるようになりたいです。 また、山城での戦い方について、去年講座で行った薭生城のことを思い出しました。薭生城は260mくらいの山に長い竪堀を作り、そこを一列で進んできた敵を上から攻撃する戦い方で、使われた武器は石や丸太の他に弓矢も使っていたと聞きました。今回内ヶ巻城を歩いて、山の高さで戦い方や使う武器にも違いがあるんだなとわかりました。他の山城にも行って見るとさらに比較ができそうです。 当時の山城の心理戦や防衛の工夫について心理学を学んでみるともっと様々なことに気づけるかもしれないと思いました。 死ぬ気で守れという話をきいてると、こんな強固な山城が作られたのは、すごいのを作るぞという前向きな気持ちというより、命のやり取りが日常的な時代だったからこそ、絶対に守り抜くと言う覚悟と執念があったからだったのではないかと思いました。300年の間続いた難攻不落の城だったことを聞き、先人たちが必死にこの土地を守っていたのだと実感しました。
⚫高場山
【高場山の役割】 御館の乱では周りが敵だらけになったので全方向に守りを固める必要がありました。そのため、遠くを見渡せるこの高場山はとても重要だったそうです。唯一、岩沢の方は山があって津南側が死角になるので、その山には函山城という城を築き、信頼できる田中氏の家来に見張らせていました。そうすることで周りの動きを把握できたそうです。 当時は弥彦山からこの山までは移動に五日ほどかかったので、弥彦山で何か動きが見えたらその間に準備ができました。 【高場山からの景色】 内ヶ巻城の搦手から車に戻り、また道を進んでいきました。やがて木に囲まれていた山道から一変、開けて見晴らしの良い場所に辿り着きました。目の前の斜面下の方にはクサソテツやクズなどの植物が生い茂っていて、木は生えていなかったので、遮るものもなく遠くまで見渡せて気持ちの良い場所でした。 見張り台はもう少し上にあるそうですが、そこまでいくと新潟平野のほぼ全てを見通すことができ、条件が良ければ朱鷺メッセも見えるそうです。 景色を見ながら、みんなであれは薭生城であれがあそこが川口で〜と指を刺しながら確認し合いました。山本山はこの山が陰になるので見えないとのことでした。 ポツリポツリと雨が降り始めていました。ここで記念撮影。なんと、講座が始まってから初めての記念撮影でした。
【高場山感想】 周りに何がみえたとか、知っている場所がわかるとなんだか嬉しくなります。 景色を見ると心が安らぐのに、当時はそんな時間にも命の危険を感じていたのでしょうか。 ここで昔、緊張の中この景色を観ていた人もいたんだなと思うと、不思議な気持ちになりました。
⚫妙高寺跡
【妙高寺跡への道】 高場山山頂を過ぎると今まで登りだった道は、砂利から舗装された下りの道へと変わりました。そのまま進んだ先の分かれ道を右に進み、そこから午前中のみの参加者の方々とは分かれました。そのまま道を下り、旧妙高寺の入り口に着いた時の時刻はちょうど12時、天気が心配だったこと、後1時間半くらいで終わる予定とのことから、お昼休憩は後回しにして進みました。ここでも入り口は地主さんによって草刈りがされていました。
【戦国時代のお寺】 戦国時代、お寺は力を持っていました。 防衛設備である山を持っていたこと、山をよく歩くので健康な人が多く、山伏や僧兵になりやすかったことから、お寺の勢力は武士より強かったのだそうです。 【妙高寺】 妙高寺跡には常に戦いに備えていた跡が残っていました。今は山の麓にある妙高寺ですが、大正時代までは今の場所から80mくらい上がった山の中にありました。1300年代の南北朝時代、群馬から田中氏と一緒にきた曹洞宗の僧侶が土着してお寺が建てられて、1900年代に火事で燃えるまで600年間住み続けていました。そうして内ヶ巻城や高場山周辺を管理していました。 池ヶ原、芋坂、塩殿は田中さんが作ったと言われている村で、妙高寺の檀家さんがいる場所と分布がほぼ同じだそうです。 【お寺の戦い方】 お寺には普段から人が住んでいるので、石や丸太の他にも戦いで使った武器には種類がありました。一番嫌がられたのは肥溜め。煮立ったお湯や油も使ったといいます。 私はお寺は戦に参加しないと勝手に思っていたので、この話を聞いて驚きました。丸太や石も怖いはずなのに、見慣れているものの方が想像できて、何倍も嫌だなと思いました。その後の後片付けはどのようにしたのでしょうか。油などの液体も掃除が大変そうです。 【妙高寺跡石垣】 天候も相まって、薄暗い林の中を歩いていくと、草に覆われている石垣が見えてきました。 石垣の高さは150cmくらい?石は正面が綺麗に割られて積まれていました。ここにかつて妙高寺が建っていたと聞き、立派なお寺だったんだろうなと思いました。使われた石はこの山にはないので、信濃川からもってきたかもしれないこと、戦国時代から石垣があるかはわからないけれど、この積み方は江戸時代中頃のもので石をうちかえて積んであるとのことでした。 この場所は普段住むための場所としても使われていた郭で、後ろから攻められないように周りは切岸で囲われていました。 高いところへ敵の兵は登っていくので、守るための城はここから始まっているといっても過言ではないとのこと。上の林道にも池や階段状の段差など、内ヶ巻城でも見られたようなものを見ることができるそうです。 山の中に立派な石垣が見えてびっくりしました。どうやってあんなに綺麗に割ったんだろう。何かコツがあるのでしょうか。講座の石器作りを思い出しました。
【櫓(やぐら)】 櫓は妙高寺跡の石垣を通り過ぎてしばらくして左にそれたところにありました。目の前は急斜面。足を滑らせたら一番下まで落ちていきそうな崖でした。景色は木が生い茂っていたのでよく見えませんでしたが、なければ遠くまで見えたと思います。 旧妙高寺で一番高いところにあるこの場所は、景色がよく見えるので見張台としての役目を持っていたそうです。 高場山は遠くを見渡せますが、毎日登るのは大変なので、この場所に櫓を立て普段はここから周囲を見張っていたとのことでした。 足場の地面を固めるためか、小さな石垣が崖を囲うようにしてありました。 1900年代、妙高寺が火事で燃える直前には鐘撞堂として暮らしの役に立っていたそうです。
【池と井戸】 櫓から崖側を通って戻るところに池がありました。櫓へ向かうときも見えていた池でした。 この山は水持ちが悪く、水は湧かないので雨水などの水をいかにして貯めるかが重要だったそうです。妙高寺跡のあたりは水を逃さない為の何かしらの工事がしてあるとのことでした。作られた池は平常時は庭園として楽しみ、戦になるとその水を兵士に送り渡らせるのに使っていたそうです。 現在、管理されていない池は落ち葉が溜まり木が倒れて沈んでいましたが、池自体が崩れた後は見当たらないので相当頑丈に作った事がわかりました。 この池の他にもお寺の周りにはいくつか水たまりがありました。いくつもあるということはそれだけ必要だったのでしょう。 池には水が溜まっていて、透き通って見えましたが、流れがないからなのか綺麗じゃないそうです。昔は綺麗な水だったのでしょうか。 池の近くには井戸もありました。落ち葉が積もっていて、水は溜まっていなかったので、ただの窪みにも見えました。井戸は素掘りで、地下水を汲み上げるのではなく、雨水を貯めるためだったというのが印象的でした。 井戸だけでは水は賄いきれないので、池を作って水を溜めていたとのこと。ということは井戸の方が先に作られた?大正時代まで池は使われていそうだけど、井戸も使われていたのでしょうか。水を貯める役目は池が担っていそうなのでもしかしたら使っていなかったかもしれないと思いました。 【水の重要性】 山城の戦いにおいて水は絶対に守らなければならない重要なものでした。半日、水を飲めないと動けなくなり、そうなると戦いが成立しなくなるからです。 武田信玄が強いと言われていた理由は水の手を切ることを得意としていたから。鉱山衆という金鉱山を掘る人たちがいて、戦の時はその鉱山衆を使って水の手を切っていたとのことでした。 なのでもし今後、山城を攻める事があったら、水の手を切ることをお勧めするとのこと。ただ、水場を奪われないように守る側も準備をしているので攻めるのは難しいそうです。 先ほどの池の上にも平坦部がありました。その場所からすぐ下の水場を守っていたと考えられます。
【雨落ち溝】 妙高寺跡を歩いていると塹壕のような細長い溝を見つけました。塹壕ではなく、雨落ち溝というそうです。地面を四角に囲って伸びていました。昔の屋根は急勾配で落ちる雨や雪の勢いが強かったので、それを雨落ち溝が受け止めることで、地面が抉れて崩れるのを防いでいたそうです。これを見つけたらその内側には建物があったということ。妙高寺跡では池の近くと石垣を上がったところで見つけられました。 囲われていないのが塹壕で、四角に囲うようにあったら雨落ち溝ということなんでしょうか。ここの雨落ち溝は、いつの時代に作られたのでしょうか。建物を建てた時からだとすると建物は最初からこの大きさだった?埋もれていてわからないけど、長年使っていたらその分深くなるのではないかと思いました。建物が600年間変わらないのか、それとも増築したりしたのか、雨落ち溝からわかったら面白そうです。
【本堂?】 櫓や池を見てまわり、最初の石垣のところへ戻ってきました。低くなっているところから石垣の奥へ登ってみると平な草むらでした。 足元は石畳になっているとのこと。 でも草ばかりでどこら辺にあるのかな?と思っていたら、大橋さんがどんどん草を抜いていき石畳が広範囲に敷き詰められているということがわかりました。 その奥にはまた石垣があり、そこを上がると地面に雨落ち溝がありました。 歩いてみると、最初の場所から、石垣、石畳、石垣、雨落ち溝(建物)というような構造になっていました。 雨落ち溝の広さを考えるとそこには大きな建物があったとわかりました。記録によると三階建ての建物だったそうです。絵図や設計図は残っているそうなので、石畳の謎の穴やあたりに置いてあるさまざまな石などが何に使われていたのか照らし合わせてみるとわかるかもしれません。 だんだん当時のお寺の姿が想像できて面白くなってきます。全部出せたら壮観だろうと思いました。 帰る途中雨に気を取られ転びました。石に躓いたようで、大きな丸い石でした。大事な遺物にぶつかってしまったのでドキドキしました。石は傷ついていないようでした。よかった…。周りを見ると同じような石がいくつも転がっていました。なんの石だったんでしょうか。他にも四角に積み上がった石、石垣に使われるより大きめの石なども見つけられ、いろいろな形の石が使われたことがわかりました。それぞれの用途やどんな意味があるのか知りたくなりました。 土や草を全部退けた姿を見てみたい。綺麗にするかもという話も聞いたので楽しみです。
【妙高寺跡について感想】 今回、600年という時間の中でこのお寺が戦に使われていた跡をみて、お寺もこの土地を守る事に力を入れていたのだと知ることができました。 気になったのは、お寺の場所についてです。この場所は防衛のための居館と聞きましたが、お寺は最初から戦いを想定して作られたのでしょうか。それとも、お寺を戦いに利用した形なのでしょうか。 またお寺までの入り口について、私だったらお寺には村人にもきてもらえるように道を歩きやすく、わかりやすくしたいと思うのですが、戦にも使われたとなると、それではいけない気がします。当時はどんな様子だったのか気になりました。 妙高寺の周りの環境について凄いなと思ったのは、至るところに水があったことです。 水持ちの悪い山だとのことですが、この辺りは湿っていて水溜まりも多く、石垣の足元には湿めった場所を好むヤマトキホコリが群生していました。池の中にはサンショウウオの卵もあり、当時の人たちの施した工事によってこの場所の環境が変わり、それを今の自然はうまく利用しているんだなと思いました。自然の強かさを感じますし、当時の苦労した証が今にも生きていることを実感しました。
●全体の感想
お昼を過ぎて13時頃に講座は終わりました。 途中雨が降ってきましたが、本降りになる前に帰ってこられてよかったです。天気の関係で、3時間くらいの講座となりましたが、たくさんのことを学ぶことができました。 今回の体験を通じてわかったことは、山全体がこの土地を守っていた人々の歴史だったと言うことです。地図や言葉の説明だけではわからない山の険しさ、当時の人々の覚悟や工夫などが実際に歩いてみて、体験したことで感じられた気がしました。 内ヶ巻城は「戦うための場所」、高場山は「見るための場所」、妙高寺は「住む為の場所」だったということがわかりました。今まで山城の名称を聞いても良くわからなかったので、それが理解できるようになってきて嬉しいです。 内ヶ巻城が高場山山頂でなく、今の場所でなければいけなかった理由はまだなんとなく、くらいにしか理解できていないし、他にもわからないことがたくさん出てきましたが、防備の役割のことも学びながら、しっかり考えていきたいです。 今回説明を聞くので精一杯だったので、もっと勉強して、その場で質問ができるようになりたいと思いました。
⚫残すという事について考えたこと
内ヶ巻城で「意味はあるのに、それが何かわからない」というものがありました。 300年の間管理されて成長し続けていた山城には必要なものだったはずなのに、それを理解できなくてもどかしくなりました。 突然わからなくなったわけではなく、だんだんと伝える人や残そうとする人がいなくなって分からなくなっていったのだと思います。 そう思うと、歴史を学べるのは残そうとした人たちがいたからだなと思いますし、残すという行為は意味があり、大切な事だと感じました。 でも実際書くことに挑戦してみると、気持ちを言葉にすることが思っていた以上に難しいことでした。今この瞬間にも表現やまとめ方で悩んでしまいます。 たくさんのことを伝えようとすると上手くまとめられなくなりますし、言葉を変えたりして悩んでいる間にも、自分が最初どう思っていたのか曖昧になっていきます。「残さないとわからなくなる」が今この瞬間にも自分の中で起こっているのだと実感しています。 その時考えたことをなるべく変わらないように、しかし読みやすくまとめる。 それができるようにちょっとずつ成長していきたいです。世の中の物書きの方は凄いなと思いました。 私は歴史についてまだまだ詳しくないので、いきなり「今までの歴史をなくならないように後世に伝えるぞ!」というのは難しいので、色んなことを少しずつ学びながら、とりあえず身近なところ、今回自分が体験したことや感じたことから言葉にしていきたいと思いました。