『田中積市郎日記』の中にみる山本五十六の死【2025-夏季企画展】
たなかせきいちろうにっきのなかにみるやまもといそろくのし 2025 かききかくてん山本五十六は、長岡出身の軍人です。軍のトップだった彼の戦死は国民に大きな衝撃を与えました。 ここでは、五十六の国葬の時の様子を『田中積市郎日記』と朝日新聞から見てみたいと思います。
山本五十六について
五十六は1884年(明治17)旧長岡藩士髙野家の六男として誕生。後に戊辰戦争後断絶していた旧長岡藩士山本家を相続し、山本五十六となりました。 五十六は旧制長岡中学校(現長岡高等学校)卒業後、海軍兵学校に合格し、軍人としての道を歩み始めます。日露戦争の日本海海戦で生死をさまよう大けがをしましたが、回復後は海軍省の勤務などを経て1939年(昭和14)8月に連合艦隊司令長官に就任しました。真珠湾奇襲攻撃やミッドウェー海戦に大きく関わりましたが、1943年(昭和18)4月18日にブーゲンビル島上空でアメリカ軍の襲撃に遭い戦死しました。
山本五十六の戦死が報じられた朝日新聞【昭和18年5月22日号(1面)】
五十六の戦死が公表されたのは、約一か月後の5月21日午後3時のニュースで、翌日の新聞でも大々的に報じられました。これに国民は大きな衝撃を受けました。 そして、国葬は6月5日午前10時50分に東京日比谷公園葬場で執り行われることが決まりました。
国葬の日
五十六の遺骨が東京に凱旋すると、遺骨が安置された芝の水交社へ連日多くの人が弔問に訪れる様子が連日報じられました。 昭和18年6月6日の朝日新聞の紙面からも国葬当日に多くの人が集った様子がわかります。
国葬の様子を報じる朝日新聞【昭和18年6月6日号】
一方、小千谷町では『田中積市郎日記』によると、役場の屋上で午前10時50分より遥拝式が行われたことが書かれています。 遥拝は神仏などを離れた場所から拝する事です。東京の国葬と同じ時刻に小千谷から五十六の国葬に参列・祈りをささげた意味で用いたと考えられます。
『田中積市郎日記』(昭和18年6月5日)
長岡へ無言の凱旋
五十六の遺骨は遺族の希望もあり、分骨されて長岡にも埋葬されることになりました。 無言の凱旋の様子は昭和18年6月8日の『朝日新聞』夕刊で報じられましたが、新潟版では同日の全国版(夕刊)に比べ詳しく報じられました。
遺骨が長岡へ凱旋する様子を報じる朝日新聞(新潟版)【昭和18年6月8日号】
紙面の写真は上野駅を出発するときの様子
遺骨は午前8時15分上野駅を出発し、上越線を経由して午後3時42分長岡駅に到着しました。このとき、駅から山本家の菩提寺である長興寺に向かう沿道は市民で埋め尽くされたと記されています。
上越線沿線に位置する小千谷町ですが、『田中積市郎日記』に五十六の遺骨が長岡に凱旋した日の様子が少しだけ記述されています。
『田中積市郎日記』(昭和18年6月7日)
午後3時18分に五十六の遺骨を乗せた列車が小千谷駅に到着し、3分間停車しました。駅には小千谷町長をはじめ、町の代表者や町内の各学校の児童たちによって出迎えられたことがわかります。 この時、小千谷町からだけでなく近隣町村からも五十六の弔いに駆け付けた人がいたものと考えられます。
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