Hontoka.

防衛と反戦のために【2024-常設展示 近世】

ぼうえいとはんせんのために 2024 じょうせつてん きんせい
おぢやの千の宝
Published on September 26th, 2024(Updated on October 11th, 2024)

小千谷は中世の頃から多くの戦に巻き込まれてきました。それでも限られた山中や、谷合などでの小さな戦にとどまっていました。それくらい守りやすく作られたまち・地形であったといえます。 そんな小千谷において、実はまち全部を焼かれてしまうかもしれない大きな戦の恐怖が約150年前にありました。それが戊辰戦争です。戊辰戦争、特に北越戦争と呼ばれる新潟県域における戦闘においては関わるほとんどのまちが戦禍に巻き込まれました。見附の今町、長岡城下町、魚沼の小出島、小千谷周辺の大きな町はすべて焼き尽くす大きな戦でした。そんな戦災の不穏な空気が渦巻く中、旧幕府軍の本拠地、会津若松を目指して突き進む新政府軍がついに小千谷にやってきます。小千谷の人々は、『どちらに見方をするか』という大きな選択を迫られることになります。この大きな選択において奔走したのが佐藤半左エ門です。戊辰戦争においてはその選択の如何に関わらず、まちが大きく傷つくことを学んでいた佐藤半左エ門は、他の地域ではどこも出来なかった大きな決断を考案しました。それが『どちらの軍にも協力する』というものでした。この決断に重要なものは、「財産」でした。これは、まち全体が協力しなければならないほど莫大な資金と労力が必要なものとなります。一人二人の力ではなく、文字通り総参加で当たらなければなりません。そこで佐藤半左エ門は合議の場を開き、まちを燃やさない意義や苦労を説き、一人一人を説得することで、まち全体の協力を得ることができました。こうして、旧幕府軍・新政府軍滞在にあたり、その軍資金や滞在時の世話を行うことで、反戦を貫き通し、まちを守りきりました。 佐藤半左エ門という先見性のある偉人ももちろん大切ですが、それに応じ協力した小千谷の当時の人々すべての力があったからこそ成しえた出来事であることを忘れてはなりません。また、この背景に小千谷縮の製作・販売による大きな利益や、交易により戦争の情報を事前に知ることができたため備える力があったことも大切なことです。 小千谷の人々の決断のおかげで、まちは戦火にあうことなく、反戦を貫くことができました。しかし小千谷は、武士がこの地で生活して以来の守りやすい地形であり、長岡藩河井継之助は、この地形を活かし新政府軍を撃退するために榎峠・朝日山山麓にて大きな防衛線を築き10日間に及ぶ局地戦を展開しました。 結果から見れば、この朝日山の戦いにおいては、新政府軍の敗戦となり、薩摩藩には現在でも「難儀は越後」とことわざが残るほど苦い思いをすることとなったことからも、小千谷の地というものがいかに守りに適しているか、その戦争遺跡の遺物からもうかがうことができます。

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