戦後80年特集展示①『町葬』 : 2025-夏季企画展
せんご80ねんとくしゅうてんじ 1 ちょうしょう 2025 かききかくてん●町葬の記録映像
市町村による公葬は、日露戦争から太平洋戦争終戦まで全国で盛んに行われていました。日中戦争以降は町が主催して予算を支出し、小学校などが会場に使われていました。参加者は在郷軍人会、愛国婦人会、遺族、地域住民、子供たちなど、多くの人が参列することで、戦死者を町を挙げて追悼するとともに、戦意の高揚を図っていました。 北魚沼郡小千谷町では1937(昭和12)年から1945(昭和20)年までの間に、46回、236人の戦死者の町葬が行われました。 今回、本展示室のモニターにて放映している映像は、1939(昭和14)年4月8日に行われた町葬の様子です。
↑町葬の映像をYouTubeで見る↑
柳澤清一郎、石田清一、石田喜代司の3名の遺骨が小千谷駅に戻ってきたところから、小千谷小学校での葬儀の様子までを町が記録したものであり、小千谷市では初公開の資料です。映像は8分弱で、冒頭、西小千谷から鉄橋の旭橋を渡る人々、小千谷駅での遺骨の出迎え、小千谷小学校までの行進、講堂での葬儀が記録されています。 町の記録映像らしく3組の取り扱いが平等なことや、細かいカットをつなぎ、多くの情報を短くまとめた内容となっています。 昭和14年の旭橋、小千谷駅、東大通、中央通、寺町、小千谷小学校などが映っており、町葬の記録であるとともに、現在の私達から見ても戦前の小千谷の様子、動く人々の姿を見ることができる貴重な映像です。
●柳澤清一郎の戦争
町葬の記録映像に残る柳澤清一郎は、1905(明治39)年、三島郡片貝村五之町で生まれました。小千谷町孫八町(現平成1)柳澤家に婿入りして「塗箔師」という、寺社や仏壇の漆塗り、金箔貼の仕事をしていました。清一郎の残した手紙から従業員が2人いたこともわかります。
家族は出征時には母 トラ、妻 トヨ、長男 豊一、長女 道子の5人家族でした。1937(昭和12)年10月、32歳の時に予備役から召集され、後備歩兵第4大隊に所属して主に後方の占領地警備業務を行いながら中国大陸を転戦していましたが、前線で食糧補給部隊の警護をしていた1938(昭和13)年12月6日、武漢の近くで戦死しました。 遺族からは清一郎が妻などに宛てた手紙類46通、千人針、日の丸の寄書き、出征旗、写真帳をお預かりして今回一部を展示しています。 戦争が始まる前には、普通に小千谷に暮らし、家族との時間を過ごしていた個人が、戦争に招集されて戦地で亡くなったという出来事、その後残された家族がした苦労を思うと、現代の私たちは身近に戦争の無い時代に生き、平和に暮らしていることの当たり前さを大切にする必要性を学ぶことができます。
町葬の時の様子
≪手紙について≫ 清一郎は家族に多くの手紙を書いています。手紙の日付や場所、内容から並び替えができ、部隊がいつ、どこで何をしているかがわかりました(図1)。 妻への手紙に書かれていることは、留守家族の心配、親戚や近所からの激励に対する礼を頼む内容のほか、仕事についての内容もあります。一家の大黒柱が戦争で不在になっていることに対する心配がつづられています。
弾除けの千人針
虎の絵、中には千個の結び目、お守りが縫われている
戦地からの手紙
中身を検閲され、作戦に関する内容は書けなかった
長男 豊一あての手紙
戦死する5日前、最後に書かれたもの
土産物の絵葉書
戦地から手紙と一緒に送られた
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