ホントカ。

学びのサロン 西脇順三郎_20251103

まなびのさろんにしわきじゅんざぶろうにせんにじゅうごねんじゅういちがつみっか

『旅人かへらず』 戦時中、沈黙を保っていた西脇順三郎が、戦後、最初に出した詩集のタイトルは、ハムレットの"no traveler returns"から取られている。その意図するところは何だったのか。 詩の言葉・構造・思想を通して、人間の苦難を越えながら、歩み続ける普遍的精神「幻影の人」を解説する。 今回は、西脇順三郎の『旅人かへらず』最終連を読んでみました。 西脇順三郎を偲ぶ会が開催する「学びのサロン西脇順三郎」は、西脇順三郎の詩に対してさまざまな切り口から理解を深める講座です。 今年は「私の一押し西脇詩」がテーマとなっており、講師の方が一篇の詩を自身の想いとともに解説する講座を行いました。講座は前半・後半の二部構成で前半は聴講、後半が聴講者も参加できるトークセッションの時間でした。 今年は7月5日、10月13日、11月3日の3回開講され、毎回別の講師が「私の一押し西脇詩」をナビゲートしてくれました。 以下、第3回目となる11月3日の回のハイライトをお届けします。 詳細は2026年発行予定の西脇順三郎を偲ぶ会会報「幻影」をご覧ください。 ■記録:町田

西脇順三郎ライブラリー
2025年11月17日公開(2025年12月3日更新)

開催概要

演題:『旅人かへらず』 168を読む 日時:2025年11月3日(祝・月) 場所:小千谷市民会館2階 第1中会議室 講師:立 恵子 さん(西脇順三郎を偲ぶ会会員) 一押し西脇詩:『旅人かへらず』

講師紹介(偲ぶ会会員:永田氏より)

講師をつとめる立さんは、かつて市内高校司書として勤務していた時に、熱心に西脇順三郎の顕彰をしており、特にマージョリー・ビドルに関することでかつて西脇順三郎を偲ぶ会会報誌「幻影」にも、投稿するなどの実績をお持ちです。

1.はじめに

十年ほど前まで、小千谷高校に勤めておりました。その頃から、西脇順三郎を偲ぶ会の皆様には大変お世話になっております。この「学びのサロン」での発表は、西脇詩とあらためて向き合う貴重な機会であり、自分自身の勉強にもなると考え、思い切ってお引き受けすることにしました。 「私の一押し西脇詩」を選ぶのは本当に難しかったです。「天気」や「雨」、「宝石の眠り」、さらに「信濃川静かに流れよ」ではじまる小千谷高校校歌など、候補はさまざまありましたが、今回はこの『旅人かへらず』の最終連168を取り上げることにしました。山本山の詩碑にも刻まれる代表的な作品ではありますが、西脇自身はこの詩について「戦争のために回顧的に傾いている。あれは私の好きな文章のつくり方ではなかった」と後に述べています。

2.西脇順三郎による168朗読

まずは、西脇本人による朗読音源を聴いてみましょう。1960年、66歳頃の録音です。 ……〈朗読鑑賞〉…… 参加者の方から「小千谷弁だね」「なまりがある」といった声がありましたが、確かにイギリス紳士的な西脇順三郎の印象とは異なる、ふるさとの響きが感じられますね。また、詩句を見ても、新しい詩風で世間を驚かせたあの『ambarvalia』(1933年)とはかなり違う言葉遣いや表現であることがわかります。

3.二冊の詩集と『古代文学序説』

ここで、戦後の1947年8月20日、同時に発行された『旅人かへらず』と改訂版『あむばるわりあ』という、まるで「双子」のような二冊に注目したいと思います。どちらにも短い解説文のようなものが付されており、『あむばるわりあ』の「詩情」では、人生のどうにもならない関係性に変化を与える「破壊力乃至爆発力を利用する」とする詩の方法について、また、詩の芸術的価値は神秘的な「淋しさ」の程度で定めるとし、《淋しいものは美しい》という美学が提示されています。一方、『旅人かへらず』の「はしがき」では「幻影の人」というものについて、それは「永劫の旅人」であり、「自分のなかにもう一人の人間がひそむ」とし、「奇蹟的に残っている追憶であらう」と説明しています。 この背景には、西脇が終戦の少し前にほぼ書き終えていたという博士論文『古代文学序説』(1949年)があります。中世までのヨーロッパ・ゲルマン諸文学を参照し、複数のテーマを設定して考察した研究で、西脇順三郎だからこそ書くことができたといえるものでしょう。そこでは「変化しないもの」を追究する姿勢を示し、その副題を「幻影の人」としています。そしてその「幻影の人」を、太古から続く人間の普遍的感受性と捉えています。また、人生の本質を「争闘と苦しみ」と強い口調で断言している点には、当時の戦争体験との深い結びつきがあり、『旅人かへらず』の表現にもその影響が反映されています。

4.詩を一行ずつ読んでみる

ここまでを踏まえたうえで、168の詩句に何が描かれているのかを見ていきましょう。 • 「永劫の根に触れ」──宇宙的スケールで始まり、詩全体のトーンを定める。 • 「心の鶉の鳴く」──和歌的に鶉は秋の鳥で、別れと孤独を象徴。 • 「野ばらの乱れ咲く野末」──野性的な生命力と、世界の果ての侘しさが一行に同居。 • 「砧の音する村」──和歌的に砧で布をたたく音は別れや淋しさを象徴。 • 「樵路の横ぎる里」──“しょうろ”は漢詩的響きを持つ。旅人以外の動きが加わる。 • 「白壁のくづるる町を過ぎ」──文明・繁栄の象徴が崩壊してゆく無常。 • 「路傍の寺に立寄り」「曼荼羅の織物を拝み」──宗教的・精神的次元への移行と鎮魂の響き。 • 「枯れ枝の山のくづれを越え」──ここにも無常の象徴。 • 「水茎の長く映る渡しをわたり」──水茎は筆を表す雅語で水や川を連想させる。彼岸への渡りを暗示。 • 「草の実のさがる藪を通り」──実は生命の継承、藪は先の見えない苦難を表す。 • 「幻影の人は去る」「永劫の旅人は帰らず」──“帰らない”旅、“別れ”が強調される。 ここで注目したいのは、「越え」「過ぎ」「渡り」「通り」など、「境界を越える」動詞が連続している点です。詩句の内容からも、これらの動詞は人生における苦難や試練、すなわち『古代文学序説』でいう「争闘と苦しみ」を越えて歩み続ける旅人の姿を示していると考えられます。 そして最後の二行、「幻影の人は去る/永劫の旅人は帰らず」について触れます。シェイクスピア『ハムレット』第3幕第1場の独白には、“The undiscovered country from whose bourn no traveler returns.” という台詞があります。西脇は当然、この原文に触れていたはずで、“bourn(境界)” という古語についても意識していたのではと思います。この点からも「境界を越える」イメージが見えてきます。

5.「永遠」の技法

続いて、この詩に「永遠」の感覚を与えている技法についてです。まず助詞「の」の多用が挙げられます。詩集『失われた時』(1960年)でも「~の」を印象的に繰り返している部分があります。「の」はどこまでも連ねられ永続性を与えるということを、西脇自身が語っていたことがあります。 もうひとつは構造の円環性です。冒頭と末尾に「永劫」が置かれ、最終行とタイトル「旅人かへらず」が呼応することで、輪のような構造を示します。本来「旅」とは「帰る」ことで完結するはずです。しかし、旅人は「帰らず」とされるため、閉じるはずの円は閉じず、わずかにずれながら螺旋的な軌道となり、それが「永劫」「永遠」に続いていく構造になります。

6.なぜ「幻影(まぼろし)」なのか

現実の世界は「無常」で、すべてが絶えず変化します。西脇自身も『ambarvalia』を『あむばるわりあ』へ改訂する際、「自分の心境が移りかはつた」と述べていました。しかし彼は『古代文学序説』で「変化しないもの」を見出そうとしました。そしてなぜそれを「幻影の人」と呼んだのでしょうか。 西脇は『旅人かへらず』の「はしがき」で、「幻影の人」は“或る瞬間に来てまた去って行く”存在だと述べています。また、「路ばたに結ぶ草の実に無限な思い出の如きものを感じさせる」のは「幻影の人のしわざ」としています。突然遠い追憶を呼び起こすような瞬間──それを形づくるのは、太古から変わらず人間の内にひそむ感受性ということです。しかしそれは、はっきりと姿を持つわけではなく、ふっと現れては消えていきます。つまり、「変わらないもの」ではあるけれど、そのとらえがたさゆえに「幻影の人」と名づけたのではないでしょうか。人間の奥底にひそむその太古から変わらない存在は、「旅人」として移ろい変わり続ける世界を歩きつづけ、時折私たちの感覚に触れてはまた遠ざかっていくのでしょう。 さらに「去る」「帰らず」という語は、ともに「別れ」を意味します。ここから「淋しさ」が立ち上がり、「心の鶉」や「砧の音」など、詩中に散りばめられた淋しさと響き合います。《淋しいものは美しい》という西脇の美学が、この168でも示されているのです。

7.まとめ

詩集『旅人かへらず』は、「争闘と苦しみ」である人生、その「境界」を「詩」という方法で越えようとした西脇順三郎の精神の記録でもあります。なかでも最終連168は、西脇の当時の「詩法」「思想」「現実」が一体となった傑作と言えると思います。 西脇順三郎の詩そのものが「終わらない旅」であり、難解とされるその詩を「読む」こと自体も、やはりひとつの「境界を越える」経験なのかもしれません。今回、『旅人かへらず』168に取り組んでみて、あらためて、西脇詩を読むことの面白さを実感することができました。説明しきれていない部分もあると思いますが、さまざまな読み方のうちのひとつとして受け取っていただければ幸いです。

■ここからは感想や意見を一部紹介

―西脇本人の朗読を聴いて― 「小千谷弁だ。」 「小千谷訛りがあるよね。」 ―鶉の声を聴いて― 開場がざわつく 「わびしさ?」「かなりけたたましいような……」 ―砧の音― ドンドンドンドンドンとテンポよく思い木槌で叩くような音 「わびしい?」 ―この詩を読んで― 「田舎の秋。」 「最初に読んだとき、小千谷の風景だと思った。」 「私も気になり、織物組合の方に曼荼羅の織物があるお寺があるか聞いてみたりしたことがありました。」 「小千谷なのかな? それとも東京の風景がもとになっているのかな?」 「この詩を読んで、旅人は西脇順三郎本人だという気がしました。都会から戻ってきて、家族や親せき、友人の中には亡くなっている人もいたと思います。そういった周囲の環境の変化などを思うと、「幻影の人」はご自身の事ではと思う。曼荼羅の織物寺は奈良の当麻寺だと思います。そこには有名な曼荼羅があるのですが、その寺の辺りを散策されていた時の景色の移り変わり、その散策の経験がこの詩になったのでは、と思いました。砧の音する、は李白の詩を参照しているのではと思いましたし、曼荼羅の織物というのは折口信夫が死者の書を書いていて、そのイメージも入っているのではないでしょうか。西脇の詩は解釈しにくくてイライラするのですが、この詩は比較的わかりやすい詩だなと思いました。」 「私は写真館を営んでいます。いつも西脇先生が小千谷にいらっしゃる時には山本清先生(2代前の西脇順三郎を偲ぶ会会長)から記録してくれと声がかかりまして、ご一緒させていただくことがありました。西脇先生は暇があるとスケッチブックを持って絵を描いていました。うちのスタジオで写真を撮ることがありましたが、西脇先生はすっかり身を硬くしてしまうので、周りをお弟子さんで囲んで、自然な会話をしてもらっている間にパパっと写真を撮りました。山本先生が仰るには、西脇先生は気に入った写真にはサインを書いてくれるとのことだったのですが、私も一所懸命に撮りましたがなかなかもらえませんでしたね。今日の講義を聞かせてもらいまして、詩のことはわからないけれど今日はちょっと理解できたのかな、と思いました。」 「初歩的な質問なのですが、西脇先生はオックスフォード大学へ何を学びに行かれたのでしょうか。今年、オックスフォードに立ち寄る機会があったのですが、駅に降り立った時に100年前にあの人はここに降り立った時、何をしようとしたのか、学ぼうとしたのか、と思いました。もし、オックスフォードに来なかったら、果たしてこういう詩ができたのだろうか。海外にもまだわかりやすい詩を書く人が多いと思うのですが、これだけわかりにくい詩を書く方がロンドンにいなければどうだろうか。ロンドンへ行かなくても彼は書けたのか。自分の中ではこの詩は小千谷らしいな、と。白壁は本家の白壁、お寺は照専寺さまなのだろうな、と思いながら読んでいました。本当に、もしもロンドンに行かなかったら、どんな詩を書いていらしたのだろう?そんなようなことを考えました。」 「私は俳句を描いています。良い俳句とはどういうものなのかという時、なかなかタネを明かしてくださらない先生方が多いのですが、西脇先生もまた、もしこの『旅人かへらず』について質問を重ねたらどのように答えるだろう、と想像をめぐらしました。小千谷市の片貝には浅原神社の祭りの詩もありまして、それは祭りと町のイメージを重ねたような、片貝人にとっては素晴らしい詩だな、と思えるような詩です。その詩については、この旅人かへらずよりも難しくない、というような印象をもっております。世界をまたにかけた考え方で詩をお作りになったのか、それは自分にはわかりませんが、やはり最終的には故郷のことが心に大きくかぶさっていたのではないかと、先生の詩を見て思っている次第です。」 「久々に西脇先生の朗読を聴いて、このような渋い声だったかな、と感じました。私もそれなりの年になってきて、若い頃よりも今こうして読んでみると、今日、色々とご説明いただく中で「なるほどな」と思うことがありました。」 「私は西脇詩を乱読しておりまして、読めば読むほど好きになります。いつも考えることは、彼は知性と感性の振り子の振り幅が実に大きいということです。私は授業で子どもたちにこの詩を読んでもらうことがあるのですが、168番をもとに自分たちが住む地域版を作ってもらうことがあります。小千谷版ができるんですよね。小千谷について詠んだ詩を含めて、そういった小千谷市民の読み取りをもっと広められたらな、とそのように今日、立さんの話をきいて思いました。」 「旅人かへらずは、ファシズムに対する西脇先生の強い怒り、あるいは絶望、そういった気持ちの裏返しなのだと考えています。淋しいという気持ちが繰り返しこの詩集には出てきますが、自身の絶望的な気持ち、怒りが濃密に出ているのではと思います。この作品の一番重要な部分と言うのは最後の2行だと思います。「幻影の人はさる/永劫の旅人はかへらず」。幻影の人・永劫の旅人とは人間の存在それ自身に淋しさを感じている存在なのだ。そういう人間が自分の中にいる、というのですね。この存在が去る。自分から離れて二度と戻らない。この二行。私はこの作品は最後の二行を以てご自身の美意識(淋しいものは美しい、美しいものは淋しい)を示していると思いました。西脇先生は自分の心境が変わったことを感じていた。自分の美意識は、ここで一大転換をしたのだ、と示しているのでは。次に出した『近代の寓話』には「淋しい」という単語はほとんど出てこないのです。美意識の一大転換を遂げたのがこの作品だと受け止めています。」 「旅人かへらず以降は、旅人はずっと帰らない。そう感じながら西脇詩を読んでいます。」

ホントカ。小千谷市ひと・まち・文化共創拠点
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開館時間:
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食アンカー
発アンカー
響アンカー
※演アンカー西側トイレは24時間利用可能
休館日:毎月第2, 4火曜日及び年末年始
第2・第4火曜日
祝日に当たるときは、その翌日以後の最初の休日でない日
年末年始
12月29日から翌年の1月3日まで
食アンカー
毎週月・火曜日、年末年始

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