西脇義一郎日記
西脇義一郎(1885~1964)は、満11歳の明治29年から亡くなる直前まで日記を書き続け、西義家にとって大切な資料となっています。ひなまつりに関係する部分を、いくつか見てみましょう。
≪ 大正十五年四月一日 「今日お雛様を飾る(今年ひな壇を新調す)」 ≫
今も残るひな壇には「大正十五年丙寅四月新調」と書いてあります。
≪ 大正七年四月三日 「節句にてお雛様見物人を以って市中は非常の賑わいにて、当家の如き始終立錐の余地なきの盛況なりし」 ≫
≪ 大正五年四月八日 「今日お雛様を片付けたり」 ≫
また、ひな人形や道具の入手についての記述もあります。 ≪ 大正三年三月六日 「四条大木人形店に立ち寄り、官女人形(八円五〇銭)尾上の尉姥の人形(八円)右近の桜左近の橘(二円五〇銭)『総て1割引き』 (旧友西川(正しくは西河)改大木源三郎君の養家先なればなり)」ヲ求め…」 ≫
大木人形店の五世大木平蔵は、義一郎と京都商業学校でした。西脇本家にも、この大木人形店の人形があります。
≪ 昭和三年四月八日 「午前瀬沼竹亭画伯、午後岩勘主人を呼び、お雛様用屏風の調整方並びに揮毫を依頼せり」 ≫ 瀬沼竹亭は小千谷元町の画家で、岩勘は元町の表具店です。この屏風は、西義家のおひな様にとって欠かせないものとなっています。
西脇モト控え
モトは明治28年生まれで、大正2年に義一郎と結婚してから「控え」(または「覚え」)という帳面をつけていました。主婦の備忘録とでもいうべきもので、料理献立に関するものが多くあります。
大正4年の「ひかい(え)」からは、ひなまつりに向けて餅を用意したり、おひな様に御飯をあげる様子がわかり、ひなまつりが家の大事な行事であったことが見て取れます。 また、四月二日には、小千谷のひなまつりでお供えされていた「かたこ(カタクリ)花」の文字も見えます。
煮〆を入れるのに用いたと思われる「書物形重箱」は、西義家のひな飾りの道具として今も受け継がれ亭ます。
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