西脇濟三郎は、小千谷の実業家、西脇国三郎の長男として生まれました。学習院で学んだ後、イギリスに渡りケンブリッジ大学に留学しました。帰国後は、西脇銀行を創設しその社長となり、新潟県農工銀行、小千谷銀行の頭取、太陽生命社長を歴任しました。 実業家として成功した一方で、公共事業へ巨額の寄附を行い、さらに育英資金を出資し人材の養成に尽力するなど、県内の産業・教育の発展に大きく寄与したことでも知られています。
西脇濟三郎(1880~1962)
西脇濟三郎と小千谷病院
現在の小千谷総合病院のもととなる小千谷病院は、明治24年(1891)に医師・木村東眠が寺町(現在の平成)で創立したことに始まります。創立したての頃は、経営難が続き、木村の私財だけでの運営が困難でした。 そこで木村は病院存続のために、町の有力者に声をかけ、応えてくれた有力者による共同経営の形で、明治31年(1898)に共立小千谷病院となりました。その後、明治33年(1900)には本町、現在のホントカ。のある場所へ移転しました。 木村の病院存続のための声に応えた有力者の一人が小千谷縮の取引や金融業で栄えていた西脇家(本家)でした。明治29年(1896)に当主となった濟三郎は、病院への金銭的な支援だけでなく、運営にも大きく関わった人物です。 「株主人名控」という資料には、明治時代に小千谷病院を支援した有力者と、その出資した株の数が記録されています。この中には小千谷小学校の創設に尽力した山本比呂伎の名前も見られます。
「株主人名控」 表紙
「株主人名控」
上段右から一番目に書かれているのが西脇濟三郎です。次点の株主が20株に対し、濟三郎は80株と、圧倒的に多い出資をしていたことがわかります。
また、濟三郎は明治41年(1908)に、亡き父の弔いに際し、病院の運営資金として250円を寄付しています。 明治時代後期の1円を、現在の3800円として計算すると、およそ95万円に相当します。
濟三郎達の支援などもあり、病院の経営は徐々に安定してきました。しかし、大正13年(1924)に約20年にわたって院長を務めていた竹村顕斎が病死したことで、再び運営が不安定なものとなりました。そんな中、大正14年(1925)8月、病院が財団法人化されるという大きな転機が訪れ、濟三郎はその初代理事長に就任しました。 数年にわたって理事長として病院の経営をたずさわったのち、退任のおり濟三郎は、多大な功績が認められ、昭和8年(1933)に小千谷病院から感謝状が贈られました。感謝状の内容からは、病院の経営と、「小千谷の安心できる社会形成」に尽力する濟三郎の姿が伺えます。
「小千谷病院から贈られた感謝状」
「小千谷病院から贈られた感謝状」 大意
昭和21年(1946)、2代目理事長木村徳衛の死去にともなって、濟三郎は再び理事長となります。昭和37年(1962)に亡くなるまで病院と小千谷の医療の充実に奔走しました。 小千谷病院は、昭和32年(1957)に、『総合病院』の認可を受け「小千谷総合病院」と改称し、現在もなお小千谷の医療を支え続けています。
小千谷総合病院と小千谷市郷土資料館
濟三郎が尽力した小千谷総合病院は、地下2階地上8階建まで大きくなり長らく地域に愛された病院でしたが、平成29年(2017)に厚生連魚沼病院との統合・移転に伴い建物も解体されました。その跡地に建てられたのが、この小千谷市郷土資料館がある「ひと・まち・文化共創拠点ホントカ。」です。 濟三郎ゆかりのあるこの場所において、西脇濟三郎家で大事にされてきたお雛さまが、今展示できるということは、何かの縁を感じずにいられません。
〈参考文献〉 ・公益財団法人小千谷総合病院‗2017年‗『創立125周年記念誌恵みの里に心を紡ぐ』 ・小千谷市教育委員会‗2011年‗「西脇済三郎」『ふるさとにかがやく小千谷の先人』20頁 ・小千谷市史編纂委員会‗1967年‗『小千谷市史‗下巻』
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