ホントカ。

戦後80年特集展示②『手と記憶に刻まれた思い出』 : 2025-夏季企画展

せんご80ねんとくしゅうてんじ 2 てときおくにきざまれたおもいで 2025 かききかくてん
2025年10月17日公開(2025年11月5日更新)

●手と記憶に刻まれた思い出

人はそれぞれに人生や価値観があります。 戦争を経験した方々には、戦争中~高度経済成長期~現代という激動の時代の記憶があり、そこからは非常に多様な価値観を感じることができます。その中でも重要な根幹として「平和への祈り、家族への尊敬、当たり前なことへの感謝」など、ともすると現代社会における若年層・壮年層の世代が忘れがちなことを、戦争経験者の皆さんが言葉にされていることが印象的です。 ≪手は人生を語る≫と言われるとおり、人間が活動していく上で最も動かしているのが手ということができます。手にも、耳には聞こえない言葉があることを是非探してみてください。

①昭和17年生まれ 男性

父が出征した時、私は2歳半。母に残した遺書のようなものがあったと思うけれど、今はどこにあるかわかりません。 戦後、汽車の中でヤミ米の取り締まりがあり、「子どもがぶってれば見逃してくれるからおまえぶってれ」と言われ米を背負ったことがありました。 戦後しばらくたってからは、土川の母子寮に入っていたこともありました。6畳一間でトイレ、炊事場共同。お風呂は寺町にあった風呂屋に行ったり、母の実家からもらい湯をしたりしました。

背景は自作の木の箱

戦後80年特集展示②『手と記憶に刻まれた思い出』 : 2025-夏季企画展

1枚の写真の1枚目

背景は自作の木の箱

②昭和13年生まれ 女性

父は、私が小学1年生だった昭和19年に出征。小3の時にお骨が帰ってきましたが、それまで何回も他の人のお骨が帰ってくる様子を見て、悲しくて泣いていたので、自分の父のお骨を迎えに行くのが嫌でした。 母は機織りや着物の仕立てが出来たので、近所の人に教えていました。近所では、織物をしている家がたくさんあり、品物を持つよりお金に換えていたので、戦後貨幣価値が下がって大変だったようです。

背景は勉強中の書道

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背景は勉強中の書道

③昭和14年生まれ 女性

父は昭和19年秋ごろに二度目の出征をし、12月9日にフィリピンへの輸送船で亡くなりました。 戦後、母は学校の給食婦になり、朝4、5時には仕事に行っていました。高校を出ておらず苦労したため、子どもには高校を出てほしいと願い、私は小千谷高校へ進学をしました。その頃、母は夜勤がある仕事で、祖母の面倒は私が見るという、今でいう「ヤングケアラー」でした。 母は平成7年に、100歳で亡くなりました。その母の趣味であった短歌を、私もやっています。

背景は趣味の短歌

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背景は趣味の短歌

④昭和14年生まれ 男性

父は昭和19年に出征。当時、父親が兵隊になって戦争に行くことは、お国のためなので嬉しく思っていました。出征する時は村の人が見送ってくれ、マメに帰るようにと、手に「す豆」を乗せてくれたのを覚えています。 農家だったので食べ物はある程度ありましたが、雑草やすっかんぼうを食べたこともあります。小学校では警戒警報が鳴った時に、手で目と鼻と口を押さえる訓練もしました。終戦の放送は、今のラジオと違ってピーピー雑音が入り聞きづらく、自分はよくわかりませんでした。

背景はお気に入りの花瓶

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背景はお気に入りの花瓶

⑤昭和17年生まれ 男性

父は昭和16年に結婚、出征は昭和17年頃。自分は母におぶわれて見送りをしたそうです。 戦時中は母、祖父、祖母、おば2人、自分の6人暮らしでした。終戦の日は覚えていないけれど、長岡空襲は覚えています。怖いというよりも空がキレイで、なんで明るいんだろう?と思っていました。 父の遺骨の箱には、赤っぽい軽石が入っているだけでした。出征前、母に残した「子供をたのむ。親孝行してくれ」という手紙や遺品とともにお墓に入れました。

背景は好きな歴史の本

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背景は好きな歴史の本

⑥昭和16年生まれ 女性

父の仕事の関係で朝鮮で暮らしていましたが、昭和19年、3番目の子(妹)がお腹にいる時、父は「名前を自分で付けてあげられないからそっちで付けてくれ。」と言い残して出征。堤防まで見送りに行きましたが、とても寒く、父が気遣い「帰れ帰れ」と言っていました。母が言うには、私も「お父様いってらっしゃい」と言ったそうです。 その後、引揚船で母と私と妹と、使用人のオモニ3人で帰国しました。

背景は趣味のよさこいの衣装

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背景は趣味のよさこいの衣装

⑦昭和12年生まれ 男性

父は、私が生まれて6か月(昭和12年10月)で出征。1年後、昭和13年10月19日北支で戦死しました。 終戦の時は8歳で、学校でも終戦の雰囲気はよく分かりませんでした。戦死者の遺骨が帰ってきたとき、小学校で合同葬儀をしました。 終戦がどうのというより、その日その日の食糧のことや生活に必死でした。終戦間際から、食べ物を手に入れるのが厳しくなったようで、みんな痩せていました。配給で子ども用のカッパが当たったことや、戦後の冬は大雪で、雪下ろしが大変だったのを覚えています。

背景は家業の織物

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背景は家業の織物

⑧昭和10年生まれ 女性

父は昭和12年に出征。妹が幼くして亡くなりましたが、その時母は、父の代わりだと思い、悲しまなかったそうです。しかしその後すぐ、父が亡くなった知らせが届きます。小千谷駅に遺骨を迎えに行くと、みんながお辞儀をしていて自分は4歳くらいだっためよく分からず、真似をしてペコペコ頭を下げていました。 終戦後、雪がすごく降ると、体の弱い母に代わって一人で屋根に上って雪下ろしをしたこともあります。着物を売ってお金にして闇市で米を買ったが、家に帰る前に警察に没収されたりもしました。

背景は趣味の書

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背景は趣味の書

⑨昭和18年生まれ 女性

両親は東京で結婚(昭和17年頃)して小千谷に疎開して来ました。 父は出征する前、赤ん坊だった自分を背負ったそうです。 戦争の実感はないし、終戦も覚えていません。父の死は教えられたというより、会話の中で知ったと思います。母は実家の近くに住みながら、親戚の家を転々としていた時期もあります。小国に荷物を運ぶ仕事や、ドカタなどいろいろな仕事をしていました。

背景は趣味の押し花

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背景は趣味の押し花

⑩昭和9年生まれ 女性

父は昭和12年に出征し、その年に戦死しました。 戦争の記憶はあまりないけれど、長岡空襲は覚えています。姉と家の前で震えながら見ていて、焼夷弾がキレイに落ちていました。家の窓に大きな黒い風呂敷をして、天井の電気にも黒い布をかけていました。寝る時は運動靴を履いて、近くに持ち出し用のバックを置き、いつでも逃げられるようにしていました。 戦後、母が病院の下足番から調理場に移り、残り物を貰えることもありました。白い米は食べたことがなく、雑炊やさつまいもご飯が多かったので、今でもさつまいもはあまり好きではありません。

背景は踊りで使う扇子

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背景は踊りで使う扇子

⑪昭和19年生まれ 男性

戦時中、家には祖父、祖母、母、父方のおばが6人いて、小学校に入るまでいとこが一緒に遊んでいました。 大正7年生まれの父は、自分が生まれる前に戦死しました。 そのことを物心ついてから知りましたが、一人っ子だったため皆にかわいがってもらい、父がいないことで辛いとか悲しいとかはありませんでした。 農家だから食べ物はあり、お金にも思ったより不自由はしませんでした。

背景は星野行男さんの書

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背景は星野行男さんの書

このページは小千谷市郷土資料館が作成しました。

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開館時間:
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発アンカー
響アンカー
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休館日:毎月第2, 4火曜日及び年末年始
第2・第4火曜日
祝日に当たるときは、その翌日以後の最初の休日でない日
年末年始
12月29日から翌年の1月3日まで
食アンカー
毎週月・火曜日、年末年始

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