1.交流~大地に刻まれた繁栄の約束~【オンライン常設展2024】
こうりゅうだいちにきざまれたはんえいのやくそくおんらいんじょうせつてん2024小千谷はとても住みやすい場所です。それは先人達の活動痕跡『遺跡』が証明してくれています。現在、小千谷では約500箇所の遺跡が見つかっています。人口密度ならぬ「遺跡密度」でいうと、隣接する市町村の中でも比べ物にならないくらい密集したものと言えます。決してきれいな火炎土器が出土するような遺跡はありませんし、竪穴住居がたくさんある大きなムラの遺跡も見つかっていません。しかしなんと言っても市域に対しての数の多さは注目されます。 これは、山・川・平地、そして雪など多様な自然があり、多様な生態系が整うことで、人々の多様な活動を支え、小千谷でしかできない多様な暮らし方を実現できることが要因と考えています。さらに交通の面からも、海・山に行くときに必ず通る交通の結節点となり、産業の担い手の人々にとっても大切な場所と言えるのです。ここでは小千谷の地形や遺跡など大地に残された痕跡から、小千谷の住みやすさをたどってみましょう。
小千谷市遺跡地図
小千谷を通るすべての人々へ
日本において人類の経験した一番古い時代は「旧石器時代」というものです。小千谷では小粟田・山谷・真人町の河岸段丘突端で見つかっています。 真人町の真人原遺跡では約20,000年前の土層から石槍を作った作業場が見つかっており、これまで新潟大学・東京都立大学・静岡大学等たくさんの学術機関により大切に発掘調査が行われてきました。 旧石器時代の遺跡はとても少なく、小千谷市内でも5遺跡しかありません。遺跡から出土するものもナイフや槍、皮なめし等わずかな石でできた道具と作りかけの石器だけです。遺跡が少ない理由は現在のような家を建てて定住する生活ではなく、狩りの対象となるナウマンゾウやオオツノジカを追いかけて自由気ままに大地を使いこなすハンターであったため、遺跡が残りづらいものと考えます。
1.さまざまな石器
遺跡の試掘作業員
― ずっと土の中にいたのが、せっかく地上に出てきて空気にふれたのだから、壊したりしないで大事にしたい ―
小千谷で二つの暮らし方を
縄文時代になると竪穴住居に住むようになり、ムラに多くの人が暮らすようになります。小千谷の縄文時代の特徴は、山と川の2つの暮らしがあることです。 山の暮らし: • 段丘の上から獲物であるイノシシやウサギを狙い 追いかけて弓矢を射掛ける。 • 打製石斧で穴を掘り根菜類を集める。 石器を使って山菜を集める。 • 栗・栃の実を集めて土器で煮る。 • 石で磨り潰してクッキーを作る。 • 動物の皮をはがして、脂を除去して、服や家を作る。 川の暮らし: • 魚をめがけて降りてきた水辺にいる鳥に弓矢を射掛ける。 • 磨製石斧で木を切り、丸木舟をつくり川に出る。 • 網と石錘を使って魚を捕まえる。 • 魚の皮をはがして、脂を除去して、服を作る。 小千谷は、縄文時代の遺跡が多く、山・川に限らず市内のいたるところに点在しています。暮らし方に合わせて住む場所を変えることができ、とても暮らしやすかったと考えられます。また東北や関東・北陸など遠くの地域で使われる土器や石器が出土しており、遠方からも小千谷の大地を求めて移住してきたことが想定できます。
2.縄文土器と土偶
4. 火炎土器
小千谷で竪穴住居を作るには
小千谷市指定文化財史跡「大平遺跡」では、昭和32年に発掘調査が行われ、翌年新潟県で初となる竪穴住居の復元が行われました。東京大学工学部教授から指導をうけ、現地で発掘したままの柱穴から柱の使い方を考察した本格的なものでした。 竪穴住居はとても簡素に見えるかもしれませんが、実は環境的な理由からも合理的な建築物です。 例えば「寒いんじゃない?」と聞かれますが、地面を掘れば掘るほど消雪パイプの水で雪が消せるように、地中は暖かいのです。ほかにも「暖炉なんてあってお家燃えないの?」と聞かれますが、実は竪穴住居の中の炉は煮炊き用ではなく、種火を残すためのものと言われています。火は一度消えてしまうと着けるのが大変で、できるだけ絶やさないために、家の中で大事に「保管」しておくための暖炉なのです。
竪穴住居の模型
暮らしの道具はどこから
平安時代から戦国時代くらいにかけて使われた食器の多くは「土器」でした。 土器は大きく分けて、自分で作れるものと自分で作れないものがあります。自分で作れる「土師器」は身近な土を使って砂を混ぜて、手でこねて、指でなでたり、木で叩いたりして、成形し、焚き火で600度くらいの温度で焼いた土器です。誰でも作れる方法で日常的な食器をみんなで作って、壊れたらまた作れば良いと気軽に使っていたようです。 一方自分で作れない「須恵器」は、特定の窯で職人が作ったものです。例えば小千谷でよく見つけられる【珠洲焼】という須恵器があります。これは今から700年前くらいによく使われた須恵器で現在の能登半島の窯で1100度くらいの温度で作られた土器です。「どうしてそんなに遠くから?」と思うでしょうが、実は小千谷は信濃川から海までの最短距離であり、海に出て船を使った直線距離にして140kmととても近いことがわかります。このため一見山しかない小千谷に海に関する交流品がたくさんあることがわかります。
3. 中世の土器
【須恵器】 出土地:塚田遺跡(千谷) 須恵器は古墳時代に朝鮮半島から伝わった青灰色の土器。窯の中で1100度以上の高温で焼かれるため強く焼締まり、従来の土器より硬く丈夫になりました。 【土師器】 出土地:塚田遺跡(千谷) 弥生土器の流れを汲み、古墳時代から奈良・平安時代まで生産された素焼きの土器。須恵器よりも低い温度(800~900度)で焼成されるため須恵器よりも軟質で、橙色ないし赤褐色をしています。 【珠洲焼】 須恵器の流れを汲み、平安時代から室町時代後期にかけて珠洲市を中心に能登半島先端の地域で生産されたやきもの。
前列左より 須恵器 土師器 / 後列 珠洲焼
外敵からムラを守るために山を削り、盛る
中世、特に室町時代~江戸時代の初期は、武力によって自分の生活の改善をはかることが続いた時代でした。それは小千谷でも同じことで、武力で向かってくる外敵に対して、武力で立ち向かわなければなりませんでした。武具が同等でも、人数が劣る場合、最も効果を発揮するのが「城」です。 城と言っても天守を建築し建物で山をめぐらすようなものではありません。「土から成る」という文字通り、山を削り、土を盛って作った砦のような存在でした。普段は山裾に暮らし、外敵の侵入にあたり、城に立てこもり衝突します。こうして人々は自分の大切な家族と財産を守り、暮らしていました。 小千谷は地形的な特徴から城を作るのに適地であり、20を超える名城が築かれてきました。 それぞれの城は、100条以上を数える竪堀・連続した堀切・階段状に仕上げた切岸・自然の河川を堀にする等、地形や敵の数にあわせて効果的に作られており、小千谷でしか見ることのできないような特徴的なものがあります。 中でも、薭生城・内ヶ巻城・時水城・高梨城・函山城・真人城は史跡として市の文化財に指定されています。
内ヶ巻城跡の管理者
― 山の原形をちゃんと残しておきたい ―
薭生城の守り人
― 城山(じょうやま)は絶対忘れられないベースにあるもの ―