小千谷のひなまつり~道具から見る小千谷の交流・自治・利他~【オンライン特別展2025】
おぢやのひなまつり どうぐからみるおぢやのこうりゅう じち りた おんらいんとくべつてん20252025年2月22日(土)~4月6日(日)まで小千谷市郷土資料館(ホントカ。内 「博アンカー」)にて開催された特別展「小千谷のひなまつり~道具から見る小千谷の交流・自治・利他~」をオンラインでお楽しみください。
【はじめに】
特別展「小千谷のひなまつり ~道具から見る小千谷の交流・自治・利他~ 」にお越しいただきありがとうございます。 小千谷は交差する諸街道と信濃川の水運によって人・モノ・文化が交流し、豊かな文化が生まれてきた地域です。 令和元年に小千谷市の無形民俗文化財に指定された「小千谷の雛祭りにおける絵紙飾りの習俗」もその一つです。この習俗は、江戸から明治にかけて小千谷縮を中心とする交易でもたらされた「絵紙(浮世絵)」をひな人形などと一緒に飾るもので、豪雪地・小千谷に春を告げる行事として人々に楽しまれてきました。 そして本年2月10日に、小千谷市所蔵の西脇本家・西義家雛人形群と小千谷絵紙保存会所蔵の絵紙の一部が、「小千谷の雛祭りにおける絵紙飾りの習俗用具及び関連資料」として市の有形民俗文化財に指定されました 今回の特別展では、指定文化財となったひな人形や絵紙などの「モノ」を、小千谷市郷土資料館の常設展のテーマである「交流」「自治」「利他」の三つの視点からご覧いただきます。当時の人やまちの様子、そして子どもや女性をはじめ「人」を大切にしてきた小千谷の人々の豊かな心が見えてくることでしょう。 最後に、この展示にご協力いただいた多くの皆様に、この場をお借りして深く感謝申し上げます。 小千谷市
【まず小千谷縮が動く】
江戸~明治時代にかけて小千谷の繁栄を支えた主力商品は「小千谷縮」です。当時の記録によれば、年間数万反もの小千谷縮が魚沼郡で製作されたと伝えられます。多くの「おぢやんしょ」が、人の大きさとさほど変わらない小さな木の道具を用い、実に細い麻の繊維を、世界的にも類を見ない高さの水準の技術により高級な織物に仕上げました。製作された小千谷縮は江戸・東京方面や京都方面に運ばれ販売されました。
【広く大きく商人が動く】
小千谷縮の商人は、一人で何反もの織物を、その小さな背中に担いで一生懸命運びました。商人の多くは、行商と呼ばれる徒歩によるゆっくりした物流方式で遠方へと行き来します。製作に携わった多くの人々の“力と思い”の詰まった高級な織物をしっかりと背負い込み、穏やかな太陽の日も、灼熱の太陽の日も、雨の日も、風の日も、当時の幅2mに満たないような狭く足場の悪い街道を歩き、険しい坂を登り、足の痛みに耐えながら歩いた先に見えた宿場で、ようやく一時の休息を迎えるのです。
【そして文化が動く】
このように苦労しながら全国を行き交った小千谷縮の商人の目に映ったものは何だったのでしょうか。それは、小千谷で見たこともない様々な「生業」や「祭り」、「もの」かもしれません。ゆっくり、しっかり歩んだ商人は、非日常的なそれらに憧れを感じ、疲れを相殺させる感動を覚えたことでしょう。そして感動を覚えた積極的な“誰か”により、見様見真似ではあっても、別の土地の文化がまるごと小千谷に持ち込まれた様子がうかがえます。例えば市の文化財に指定されている『豊年獅子舞』は江戸方面で、『巫女爺人形操り』は京都方面で楽しまれていたものとされています。これら、別の土地から持ち込まれたものの中に、江戸で流行していた浮世絵⇒『絵紙(えがみ)』などに代表されるお土産があります。
縮の製作道具
小千谷縮の織子
― よいものをつくれるように、前の人が持っているものを受け継ぎたい ―
下タ町豊年獅子舞
仔獅子
下タ町豊年獅子舞の継承者
― あうんの呼吸というか、仲間意識 ―
巫女爺人形操り
千谷の巫女爺
【まず財産が動く】
江戸~明治時代の小千谷のまちは、小千谷縮の生産・販売により非常に豊かでした。人々の生活水準は高く、幕府はこの地を天領、すなわち直轄地として統治していました。そんなまちで行われるひなまつりは、さぞ豪華なものだったと思われるでしょう。そこで、この会場に飾られているひな人形たちをご覧ください。ひな人形だけでなく、様々なものが所狭しと飾られているのがお分かりかと思います。一点一点の品物は、決して豪華なものばかりではありません。むしろ雑多で統一感がなく、中には破損しているものもあります。実はよく見ると小千谷で作られたものは少なく、言葉を選ばなければ「お土産の見本市」ともいえます。しかし、商人・職人問わず自分の家で代々大切にされ、自分たちにしか分からない「千の宝」を、自分なりの表現方法で自由に飾っているのです。
【飾りつけるために動く】
小千谷のひな祭りは、それぞれの家で全く異なるものを飾ります。例えば「西脇本家」は、豪奢な真鍮製の象嵌調度品や、卓越した型紙技術の力により製作された小さな住宅模型、西洋人形など、まさに近代化の象徴ともいうべき財産を飾ることで、見た人々を驚かせたことでしょう。京都に支店を持って頻繁に交流していた「西義家」は、「大木人形店」や「けうゑや」といった、京都の老舗人形店から多くの人形を購入しています。ほかにも平安絵巻を人形とジオラマで見事に再現し、物語から飛び出したような、優雅な世界を体現しています。
【そして見合うために動く】
もちろん豪商として知られる両家のほかにも、今なおそれぞれの品々と方法で雛飾りを続けている家はあり、訪れる人々を魅了しています。共通点があるとすれば“人形と絵紙を飾る”ことであり、それ以外は自由に決定します。ある家は雛人形、ある家は日本人形。ある家はその時代に流行の子ども用の玩具など。ひな祭りに家の中を彩るという行為そのものが、一軒という家の中で行われる小さな「自治」ということができ、このまちを支えてきた自治の最小単位と言えるのかもしれません。
●ひなまつりの風習●
小千谷のひなまつり一番の特徴は、壁に飾られる絵紙(えがみ)です。絵紙は、多色刷りの浮世絵を指す小千谷の言葉で、小千谷縮などの交易で江戸(東京)に行った商人が土産として持ち帰ったと言われています。いつの頃からか、本町などを中心として、ひな飾りのある部屋の壁やそこに続く廊下や階段を、壁掛け状に仕立てた絵紙で飾るようになりました。 今は3月が一般的ですが、昔の小千谷のひなまつりは4月3日に行われていました。現在のように除雪技術も進んでおらず、まだ家の周りには雪がたくさん残っている頃、絵紙を飾ることで女の子の節句を祝うハレの空間に彩りを演出したのかもしれません。 さらに、ひな壇にはひな人形だけでなく、市松人形、押絵、ままごと道具や玩具、手毬など、その家にある子どもが喜びそうなものが総動員されます。そして、そこには雪の中から顔を出したばかりの「かたこ(カタクリ)の花」が飾られたといいます。 子どもたちは、お雛様が飾られた近所の家や商家を見て歩き、甘酒やお菓子を食べるのが何よりの楽しみでした。お供えされたお菓子を食べると「めめがよくなる(美人になる)」という言い伝えがあり、雛祭りの思い出を聞くと、絵紙や人形ではなく、このお菓子の話をする人がたくさんいます。 ひなまつりに絵紙を飾る風習は、令和元年「小千谷の雛祭りにおける絵紙飾りの習俗」として、市の無形民俗文化財に指定されています。
絵紙調査隊を始めた人
― 小千谷は浮世絵が普通にあるまち ―
●ひなまつりの道具●
小千谷市指定無形民俗文化財であるひなまつりの風習は、「飾り、見て、楽しむ」という行為が文化財として指定されたものです。 この風習を、後世に受け継いでいくために必要なひな飾りの「道具」が、令和7年2月10日「小千谷の雛祭りにおける絵紙飾りの習俗用具及び関連資料」として小千谷市有形民俗文化財に指定されました。 先人が大切にしてきたひなまつりを彩る「道具(もの)」を、現在のひとが「飾り、見て、楽しむ」ことで、この風習を未来の小千谷に伝えていきましょう。
【小千谷の雛祭りにおける絵紙飾りの習俗用具及び関連資料】
1.西脇本家雛人形群(小千谷市所蔵)
この雛人形群には、西脇濟三郎がイギリス留学した際に購入したと思われるものや日本製のセルロイド人形など、日本の近代化を感じさせる品々があります。また、濟三郎の妻・壽子が輿入れした際に持参した琴、婚礼用の提子や長柄銚子など、実際に使用したと思われる華やかな品々もあります。
2.西義家雛人形群(小千谷市所蔵)
西義家は京都に営業所があったことから、京都の店で購入した人形が多くみられます。一方で、小千谷の画家、瀬沼竹亭の描いた屏風もあり、地元の文化も取り入れています。ひな壇とは別に「舟遊び檀」があり、手前側は天皇皇后が舟遊びをする姿、奥側は在原業平が京都から関東へと向かう「東下り」の様子が再現されています。
3.絵紙群(小千谷絵紙保存会所蔵)
小千谷絵紙保存会が所蔵する絵紙はすべて個人から寄贈されたものです。それらは、かつて所有していた家人によってつなぎ合わされたものや、長年にわたり絵紙の保存活動に尽力した表具屋・横山久一郎氏(表久)が、所有者の依頼によって綺麗に仕立てたものなどがあります。
ひな人形と一緒に飾られていたもの
押絵
百人一首
飾るだけではなく、実際に使用されていた形跡があります。
豆本
「源氏香図」には源氏香図・伊勢物語和歌・三十六歌仙の名前が書かれており、巻末には「文化十年酉ノ弥生」の記載もあり、江戸時代に書かれたと推測されます。
【まずお菓子が動く】
小千谷のひな祭りの最もわかりやすい人と人の関わりとして「めめがよくなるお菓子」があります。お菓子をふるまって子どもたちを祝福することで、まちに人々の笑顔があふれます。まちを挙げて春の訪れを喜ぶことで、表情の豊かな人間が増え、本当にまちの表情が大きく変化したことでしょう。我々と同じ血の流れるおぢやんしょが、お菓子を媒介として、まちに笑顔を増やしていました。
【人々の表情が動く】
雪の白から桜の桃色に変化する自然界の表情、鬱蒼とした深い積雪から解放され安堵する人々の表情、欲しいお菓子をもらった子どもたちの無邪気な表情。また、この時期しか見ることのできない大旦那様の家を垣間見た尊敬の表情、異文化にふれた驚きの表情、大切な市松人形のお顔にふれて怒られた悲しい表情。まち中がひな祭りを感じるその時、様々な表情を生み出したことでしょう。この人々の豊かな表情が小千谷の歴史の一つを作り出してきたのです。
【そして人のために動く】
豊かな表情は、豊かな社会を生み出します。例えば明治時代に西脇濟三郎の行った利他の行動は、まさに小千谷の象徴とも言えるものです。人々や町のために橋をかけ、学校を造り、病院を創る。その思想の一角に、幼少の頃から当たり前のように目にして体験した小千谷ならではひな祭りの表情があったことは想像に難くありません。もし今、皆さんが、かつての濟三郎のように小千谷のひな祭りに、そして連綿と続いてきた小千谷の歴史に心を動かされたとしたら、それはこのまちが中世の昔から繰り返してきた、まちが未来に向けて動く瞬間の小さな一歩なのです。
西義家関係資料
西脇濟三郎関係資料
「小千谷病院から贈られた感謝状」
【おわりに】
小千谷縮の交流によりもたらされたひなまつりの風習は、今も春を告げる行事として受け継がれています。これまでにその風習が途絶えてしまうかもしれない大きな危機が三回ありました。 一つ目が戊辰戦争。小千谷に攻め入った新政府軍により、町が燃やされる可能性がありました。しかし、町の人々の力により、戦火から逃れることができました。二つ目が昭和三十年代からの高度成長期。住宅事情の変化やテレビの普及による文化の均一化や家の建て替えによって、ひな人形や絵紙を飾る場所や機会が少なくなりました。 そして三つ目が、平成16(2004)年におきた新潟県中越地震です。古い家や土蔵が崩れ、そこに保管されていたひな人形や絵紙は処分される危機にさらされました。実際に捨ててしまったという声も多く聞いています。 今回展示したおひなさまと絵紙の調査から見えてきたのは、文化や風習を楽しみ、守り、受け継いできた人々の思いであり、小千谷が歩んできた歴史そのものでした。 昔の小千谷のひなまつりは、月遅れの4月3日でした。まだまだ雪深い中、ひな人形の準備をする大人たちと、それを楽しみに各家を回った子どもたち。そこには、町をあげて春の訪れを祝う小千谷の人たちの姿があり、子どもたちの健やかな成長を願う優しい思いが、この風習に生き残る力を与えてくれたのかもしれません。 この風習は、道具を飾り、見て、楽しむ人がいる限り、生きた文化財として続くことができます。残してくれた先人たちへ思いを馳せながら、小千谷のひなまつりをぜひ一緒に楽しんでいきましょう。 小千谷絵紙保存会
絵紙保存会事務局
― 絵紙をただの浮世絵にしない ―
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